聖書の読み方

先日、ある牧師さんの証し(?)を聞いた。ある働きを依頼され、それを引き受けるべきか迷っている時に、使徒言行録の16章を読んで、引き受けるべきとの確信が与えられたというのだ。
ちなみに、こんな文章だ。

その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。

もうちょっと前にも、宣教師の先生が、似たような話をしたのを聞いたことがある。その度に思うのだけれども、迷っている時になんでこの箇所を開くのだろう。誰かからその日その時ここを読むようにと指示されるならともかく、自分で選ぶのであれば、例えば、ヨハネ福音書の7章を開いたっていいじゃないかと思う。そこにはこう書かれている。

そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスガリラヤにとどまられた。

ま、実際には、その後に

しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。

とあり、更には

祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。

となる訳で、語る事を思いとどまらせるには弱いのだけれど、しかしまあ、そういった箇所もある訳だ。

言いたいのは、迷っているといいながら、使徒言行録の16章を開いてみた時点で、やる気満々な訳で、何にも迷っていない。ただ何か後付けが欲しいだけなのではないかという事だ。

でも、この手の話は結構聞く。私は昔から、聖書は、前後の文脈との関係で読まなくてはいけないと教えられて来たし、聖書は個々に理解するのではなく、その書物の主題、聖書全体の主題との関連で読まなくてはいけないとも教えられて来た。パッと開いた聖書の箇所で何か指針を得る事は愚かな事であると教えられて来たので、実に違和感があるのだけれど、あまりにもみんなこんなことを言うので、みんな迷った時には適当に聖書を開いて、気に入る聖書の箇所が出るまで続けるのだろうかとか思ってしまう。
どうしてるんだろう、本当に。