聖書信仰

先日、日曜日の礼拝の時に、ギデオン協会の人が教会に来た。
ギデオン協会ってのは、ビジネスホテルなんかに泊まって、デスクの引出しを開けると聖書が入っていることがあるでしょ?その聖書を配っている団体です。ホテルに配るほか、学校の校門前で配ったり、病院に配ったりもしている。
教会組織とは別に信者の人たちが作っている団体で、本部はアメリカにある。活動の資金は会員達の会費で賄っており、聖書を印刷して配る資金は、自分たちで提供するほかに、あちこちの教会にいって活動報告をして献金してもらって賄っている。ウチの教会にも毎年一回くらいその報告と献金のお願いに来るのだけれど、今年もそれが来たって訳。
で、そのギデオン協会なんだけど、上にも書いた通り、学校の校門前で聖書を配る。昔は、校長先生がわざわざ全校生徒を集めて「聖書ってのは良いモノだから読むように」って配らせてくれたこともあったらしいけど、今は学校の敷地外で配っていても、先生がとんできて苦情を言われたり、直接言われなくても怪しげな者を見る目で監視されたりするらしい。まぁ、これだけ実害のある宗教が多くなると仕方がないかなと思う。

それはそれとして、今回ウチの教会に来たギデオンの人が言っていたことなんだけど、それって彼らのメンタリティーに共通してるなと思ったのが、「聖書には人を動かす力があるんです」って堅く信じてること。
私にしてみると、何百頁もある小さな文字がびっしりで挿絵一つない本をいきなり知らない人から渡されたとしても、誰も読まねーよ。とか、そもそも最初のイエス系図のページで躓くだろとか思ってしまう。だから教会で集会の案内トラクトを作るときも、できるだけ一発で目に留まって、少しでも興味を持ってもらえるように、デザインを考えたり大きな文字でキャッチフレーズを入れたり工夫しようと思うのだけれど、ギデオンの人たちはそんな姑息な手段とは無縁だ。何の工夫も説明もフォローもなく、ただいきなり聖書を渡せば、それを開いてくれて読んでくれて伝わるのだと純真に確信しているのだ。

でも実は、このメンタリティーこそキリスト教徒共通のメンタリティーなんだ。もちろん、聖書学なんて学問があって、難しい本を何十冊も読んだり難しい言葉を駆使したりする牧師が居るもんだから、聖書ってのはそんなふうに勉強しなければ読めないんじゃないかと思ってる人もいるだろうけれども、基本的には聖書ってのは、自分の読解力で自分の読める程度に読めば十分。それこそ文字が読めない人は読めないなりに聖書に触れればよい。
と言うのも聖書って書物は、その書物そのものに神の力が働くつまり「聖典」である。逆に言えば、聖書が宗教的に特別な意味を持つのは、その本自体ではなく、そこに神の力が働いていることに根拠があるのだから、極論すればその人の読解力は決定的な意味を持たないということになるのだ。
聖書そのものをお守りのように携帯する人もいる。ラテン語やヘブル語の聖書を理解できないにもかかわらず、その言葉自体が力を持つオマジナイのように使う人たちもいる。日本語の単語であっても文脈や背景を全く無視していい意味でも悪い意味でも「座右の銘」的に使う人もいる。プロテスタントキリスト教徒としては前二者はもちろん個人的には最後の人も困ったことになる場合があるだろうなと思うのだけれども、古代ヘブル語もコイネーギリシャ語も母語ではない21世紀の日本人がどんなに努力したとしても、結局は上記三者と五十歩百歩だろう。読解のために努力することを否定するつもりはないどころか、むしろそれらの読解の努力をコミコミで神が働くのだと信じているのだが、その読解のための努力は意味内容が伝わることにおいて本質ではなく、枝葉にしか過ぎない事を意識することこそ、実は聖書を開くにおいて重要な意味を持つんだと思うわけです。