そこにわたしはいません

終風爺経由で、増田

キリスト教界隈で、二つの相反する理解を見たので、メモ

第一は、こちらの方が多いと思うけれど、「死者が千の風になる」と言うのは、増田が指摘するように、「死んでも"私"が消失するわけではなく自然のサイクルに取り込まれて目には見えない形になるだけだよとかそんな意味」
教会の一般的な反応としては、これは汎神論的、アニミズム的、ニューエイジの思考であり、キリスト教徒としては、そんな教えにうつつを抜かしててはならない。と言うもの。


その一方で、これは実にキリスト教的な歌だと言う人もいた。
それによると、「風」は「聖霊なる神」のこと(「風」イコール「霊」は、キリスト教で聖書を読む時の常識的な解釈)。従って、「千の風になって」は聖霊によって永遠の生命に到っていると言うキリスト教的な死生観を示すのだと言う説明。
傍証となるのは、「そこにわたしはいません」は、キリストが復活したあとに、天使が「あの方は、ここにはおられない(マタイ福音書28:6)」と言ったのとイメージが重なるのだと言われる。

後者も判らないわけではないけれど、やっぱり、前者の方が筋が通っているような。