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[書評]捏造された聖書(バート・D・アーマン): 極東ブログで取り上げられていた捏造された聖書(バート・D・アーマン)を書店に見に行った。パラパラと見て、買うのを止めた。長いってのもあるけれど、たぶん知ってる話ばっかりだから。
聖書が無数の書き損じ(意図したものも意図しないものも含めて)であることは既に常識で、どんなに保守的な人達であっても、たとえばネオコンとかいう人達であろうとも、本文批評学を抜きにして聖書を読むことは出来ない。いまだにキングジェームス(欽定訳)を使うとか、いまだにウルガータを使うとかいう人ならともかく。と言うか、欽定訳やウルガータだって、本文批評の成果だもの。日本語でいうなら、明治元訳を使ってる人でない限り、マタイ福音書六章十三節に「国と力と栄えとは限り無く汝のものなればなり」の文言がないことを本文批評以外の理由で説明する術が無い。
問題は、その「書き損じ」が信頼できないものか、それでも信頼を置けるものであるかと考えるところだろう。どうもアーマンはそれが信頼できないと見ているようだ。私はそれは信頼できると思っている。それだけ。
私が最初に勉強した時に読んだのはhttp://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E7%94%9F%E3%81%84%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%A8%E6%88%90%E7%AB%8B-1978%E5%B9%B4-%E6%A6%8A%E5%8E%9F-%E5%BA%B7%E5%A4%AB/dp/B000J8DBL8/ref=sr_1_3?ie=UTF8&s=books&qid=1214828855&sr=1-3だけど、アマゾンだと酷い値段になってるし、ちょっと癖があるからお勧めしない。
本文批評に限らず、聖書学について基礎的な知識を得ようと思うなら、Amazon CAPTCHA
これでいいんじゃない?この人もずいぶんだけど、聖書の成立と保存については基本的に信頼しているし。


ついでに、アマゾンで、http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/404867188X/fareasetblog-22/ref%3Dnosim/http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006031645/fareasetblog-22/ref%3Dnosim/を買った。元々読むのが遅いほうだけど、前者はさすがに一時間くらいで斜め読みした。後者は斜め読みだけで三日ほどかかった。
両書ともキチンとした本だし、伝えたいことはよく分かる。どちらも後半は異存無かった。でも、前半は随分違和感を感じた。正直よっぽど読むのを止めようかと思うくらいだった。結論として思ったのは、岡野は教育者であり、クシュナーはユダヤ教徒でしかもカウンセラーなんだなぁということだ。そして、自分の「神」を改めて認識した。
キリスト教というのはキリストの宗教だ。キリストとは、全知全能、全てを知り、全てを能う存在が、現に目に見えてで触れることの出来る存在として存在した。存在しているということだ(と思う)。それは逆に言えば私自身は何も知らない何も出来ない存在であるということを受け入れるということだ。だから、私の全てはキリストを基盤にすることで初めて存在し得る。意味を持ち得る。逆にイエス・キリストにおいてありとあらゆるもの、ありとあらゆる存在は、全て意味あるもの価値あるものとして存在する。もちろん、無知無能(そんな言葉はないけど)の私には現時点でその意味を知り尽くすことは不可能だ。しかし、それが苦痛なら苦痛である、不条理なら不条理であると神に訴えることは出来る。神はそれを必ず正面で全て受けとめてくれる。だから自分は立ちうるのだ。
岡野もクシュナーもそして終風爺も、私から見たら強い。神に凭れ掛かることなく、神に支えられることなく、自分で立とうとしている。自分で立てると思っている。それは強いではないか。

私は私の全てを神が支えてもらって初めて立つことができる