知性とキリスト教

2008-07-13を聴いた。
日本人だってそこそこ馬鹿だって気もするけれど、面白かった。町山氏は、近年のアメリカ人が馬鹿になった理由として、元来アメリカが持っていた反知性主義に加えて、近年のキリスト教原理主義が持っている反科学主義があることを指摘していた。関係ないのかもしれないけれど、最近日本でも「チャーチスクール」ってのが流行っている。わたしの語彙では、チャーチスクールすなわち教会学校というのは、日曜日の礼拝の前に、子どもたち対象に行われる礼拝と教育の時間のことだと思っていた。ところが最近はそうではないらしい。いわゆるホームスクールのように、教会が子どもたちを集めて学校に代わって教育を行うことをチャーチスクールというのだそうだ。単純にわたしの印象として日本のホームスクールは、不登校の子どもに対応するためと言うのが多いような気がするが、チャーチスクールの場合、その多くが宗教的な理由、特に進化論を否定して創造論を教えることが目的であることが多いように思う。
進化論については思うところがいっぱいあって書ききれないので書いてないのだけれど、もし、創造論を子どもに教えるのだとしても、進化論を教える学校や社会と切り離して、創造論だけを教える社会を作って、その中で子どもを育てればよいのかと疑問に思う。彼らは、創造論だけを教わるか、創造論の文脈の中で行なわれる進化論否定論の中でだけ育てられる。その教育を終えた子どもたちはいったいどこで生きるのだろうか。今の日本のキリスト教徒数の現状の中では、非キリスト教社会、進化論を当然のこととして教わってきた人々の中で生きざるを得ないのではないか?創造論で純粋培養されてきた子どもたちは、進化論の海の中で、はたして生き残ることができるのだろうか?もし、生き残れない、つまり、それまで培ってきた創造論的な教育を放棄して、進化論的な知識に置き換えてしまうことになるのであれば、それを避けるためには、チャーチスクールを卒業した後も、進化論の社会から隔離された創造論の社会を作って、その中で生きるしかない。
要はカルト化するしかないことになる。
これは、日本におけるキリスト者が極少数だから起こる特別な事例というわけではない。いわゆるキリスト教国として、国民の大多数がキリスト教徒だとしても、先程の米国の例のように、キリスト教信仰は、人を知性から隔離する等と言われてしまうのである。
キリスト教の知性はもっとこの世の知性、特に非キリスト教の知性と正面から向かいあう覚悟が必要なのだろう。それでもしキリスト教が潰されるのであれば、それはそれで仕方がない。