キリスト教はお節介

前にも書いたことがあるけれど、ちょっとした伝手で坊さんの知り合いがいて、彼を含めた坊さんたち数人と、年に一度か二度くらい一緒に呑みに行く。彼は私がクリスチャンであることを知っていて、日本のキリスト教がいかにダメか虐めてくる。私は面白がってゲラゲラ笑って酒を呑むわけだ。そんな中の話を一つ。
彼いわく、仏教では「自分のして欲しくないことは他人にしないようにしよう」だそうだ。一方、キリスト教では「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ福音書7:12)。彼はいわくキリスト教のは余計なお世話だ!。なるほどねぇ。そりゃあそうだと爆笑していると、周りの人たちはポカンとしている。私の説明「世界中どこへ行っても、冷たいコカコーラを飲めるのが幸せだと思ってるから、イラクに侵攻しちゃうんですよ。」


仏典などでこれに当たる言葉がどこのどんな文章か、ちょっとググッたけれど、よく分からなかった。その時、その坊さんは、ちょっとした説話を話してたけれども、詳細は覚えていない。釈迦の弟子が、「自分は自分のことしか愛せない。妻であるお前を愛することができない」と言うと、妻は妻で「私も自分のことしか愛せない。夫であるあなたを愛することができない」と言う。これは困ったというので二人で師である釈迦のところに相談に行くと、釈迦は「だったらお互いに自分のして欲しくないことは相手にしないようにすればよい」と言ったとか何とか。(詳細を知ってる人がいたら教えてね)

元々「己の欲せざる所は人に施す勿れ」は論語にある文章のようだ。論語と聖書は単純に裏返しのようであり、多くの人がそのように理解している。例えばこれ

いわゆる応報思想の「黄金律」の名で周知されているその原則とは、「何事も他人からしてほしくないことは、他人にもしてはならない」というものです。この否定形の格言は裏返すと、「何事も他人からしてほしいと望むことは、他人にもその通りにせよ」ということです。

紀元前5世紀に中国の思想家である孔子が著した「論語」に、こうした人間のとるべき姿勢としての基本的なルールがすでに言及されており、また、世界のさまざまな宗教の教えの中に、わずかに文言の違いこそあれ、同様の基本的なルールが見出されることは驚くべきことです。

仏教の経典の中にも次ぎの言葉があります。「自分にとって心地よくも嬉しくもないことは、他人にとっても同じことである。自分にとって心地よくも嬉しくもないことで、どうして他人に迷惑をかけられようか。」(サンユッタ・ニカーヤ)
  (引用:第22回庭野平和賞受賞記念講演

ひそかに敬愛するハンス・キュング師の講演の引用であるが、これには同意しかねる。論語と聖書は同じことを言っているようで、それは同じではない。論語が教える人間関係は、相互に自律した人間関係であり、控えめで謙遜な人間関係である。親しき中にも礼儀ありと言うやつだ。ところがその一方で聖書の教える人間関係は、お互いの距離が非常に近い。「自分が良い者は他人にとっても無条件で良い筈である」という価値観の一致に関する極めて楽観的な意識を前提にしている(ちょうど昨日のエントリーで挙げた牧師がこれであった)。アメリカの社会が幸せなのだから、世界中がアメリカの社会と同じようになればそれぞれの国の人たちは皆幸せな筈だと純真に思い込んでいるのである。こういう人が傍らにいたら、居られた方はたまったものではない。「余計なお世話だ!」と叫びたくなるのは当然であろう。

なぜ、論語や仏典では「して欲しくないことはしない」なのに、聖書は「して欲しいことをせよ」なのか。その必然的な理由が、イエス・キリストの存在であろう。イエス・キリストは完全なる人間であると同時に完全なる神である。人としては私たちと同じ次元に立っているにも関わらず、全く同時に、全てを知り全てを能う神としての能力を持っている。従って、キリストは他人が欲しているもの、他人が必要としているものを、全く見誤ることなく完全に察知することができるのである。相手がコーラを欲しているのか、自由主義経済を欲しているのか、相手が言わなくてもその気持ちを完全に見抜いている。それどころか、本人が自覚していなかったとしても、その人が必要としているものを完全に見抜いている。「自分(つまり人間)が本当に必要とし、欲しているものを相手にも与えよ」イエスが勧めたのは、欲望に基づいて振る舞うことでも、自分の価値観を他人に押し付けることでもない。「人間が本当に必要としているものを与えあう」という人間関係である。そして、イエス・キリストはそれを実際に実現したのである。罪の結果としての死から解放され生命を必要としている人間に対して、ご自身を犠牲にしてまで生命を獲得したのだ。
それは、神のすることだと置いておくことができればまだ楽なのかもしれない。けれどもそのキリストは人間なのである。人間としてその生涯を生きたのである。そのキリストの人間としての生き方は、人間の本来あるべき生き方である。つまり、キリストに従う人間達は、人間としてキリストが生きたその生き方をお手本に生きなければならない、つまり「して欲しいことをせよ」という教えに従って生きることを求められなければならないということになるのである。
押し付けがましい、余計なお世話なのは、キリスト教の避けがたい本質なのかもしれない。