短めのネタ

もう一つ、その席での話。
実はその席には禅宗の坊さんもいたのだけれども(自分でも、もう一体何の集まりなんだよとか思うよ)、話の流れで、ぼそっと「いやぁ、自力(本願)は結局他力(本願)なんだけどね」とか言うわけですよ。
わたしゃそれこそ門外漢だから、全然分からないのだけれど、坊さんたちは「そうだよね〜」とか笑ってるわけですよ。一生懸命修業して座禅でも組んでいると、そこで自分の力でない何か他所からの力によって動かされるということなのかしらん。それとももっと全然別のことなのかな?。自力はダメダメ、他力こそがわたしの生きる道みたいに叩き込まれてきた根っからのキリスト教徒としては、「自力を突き詰めると他力になるよ。でもそこはやっぱり自力なんだよ」って言う境地は良く分からない。良く分からないけれど、何かスゴイなぁと思ってしまったわけです。


ちなみにキリスト教徒の間では仏教、特に伝統的な仏教のお寺はいわゆる葬式宗教に堕していて、何にも宗教として機能していないみたいなことを平然という人が居るけれども、それは全くの誤解。もちろん中には現状に胡座をかいている人が居るかもしれないけれども、皆ものすごい危機感をもっているし、教えを研究し、伝道の方策を模索し、実際に実に多様な働きをしている。そしてそれは下手なキリスト教よりもずっと腰が据わっている。