消火器投げ込み

一昨年あたりから、近畿圏のプロテスタント教会に消火器等が投げ込まれる事件が続いていた。一連の事件の犯人であると思われる人物が先日逮捕された。私がこの事件について聞いたのは、昨年の秋、近畿のある教会の牧師とあった時だった。その時の印象は、ある種の関係妄想を伴う精神疾患の人が絡んでいるのではないかなと思うくらいだった。キリスト教会という所は、建物が特徴的であり、またそこにはある種の宗教的神秘性があると見なされているので、時々そういう方が来られる。たいていの方は平和に訪れるだけだし、少なくとも対応する方が簡単な知識と経験さえあればそれほど問題にはならない。けれども時には手に負えない人が来ることがある。私も過去に一人二人手に終えない人に出会って、逃げ出したことがある。私の経験した人は暴力的ではなかったが、最近その手の話を時々耳にするようになっていた。おそらく昔よりも増えているのではないだろうかと思っている。


ところで今年の冬に、ある講演会で、講師の方がこの事件のことについて触れていた。その講演会は、教会の社会的な関わりについての講演であったけれども、講師は、この事件について、単なる一人の特別な人物と教会の問題ではないと指摘していた。キリスト教が日本という社会の中で活動しようとする時に、特定の個人や組織に集約できない「社会」と対面しなければならない。そして、「日本社会」とキリスト教は、まだそこで折り合いを付けていないのではないかと指摘された。もちろん、この事件に関して言えば(実際そうであったようだけれども)ある個人の犯行であり、社会的な背景、特に組織的な関わりを持つ存在等はほぼあり得ない。しかし、ある問題を抱えた人物が「キリスト教会を攻撃しよう」と行動に移すその背後には、ある社会的な「空気」が存在する。そしてその空気は、少なくとも明治期からずっと変わっていないことが指摘された。
通常日本のキリスト教師を考える時に、明治初期と第二次大戦後は、いわゆるキリスト教ブームの起こった時代であり、戦国時代と並んで、日本にキリスト教が受入れられた時代であると評価されている。しかし、講師の先生は、(少なくとも第二次大戦後の時期は)日本においてキリスト教が(米国の力を背景にした)マジョリティーであったのであって、決してキリスト教そのものが日本の社会に受入れられたのではないと指摘した。むしろ日本の宗教界、知識層は、キリスト教の侵攻に警戒心を燃やしていたことを紹介して下さった。それはそれで非常に刺激的な講演であったし、くだんの事件の背景を読み解く文責には感心させられた。


その後、関西の牧師さんと再び話す機会があったが、この事件の被害に遭っている教会が、単に「プロテスタント教会」という大枠ではなく、もう少し狭い範囲のグループに限定されていること、そして何よりも、その襲撃がどうやら五十音順なのではないかと疑われていること等を聞いた。こうなると、犯人像は単なる愉快犯や妄想犯ではなくなる。犯人は比較的キリスト教会に近い所にいる人物であり、キリスト教の教派について一定の知識を持ち、かつ、もしかすると住所録のようなものを入手できる人物ということになる。
そして先日逮捕された人物はまさにその像に当てはまる人物であった。
一般に、逮捕された人物はその事件に関してあくまでも被疑者、容疑者であって、冤罪の可能性もあり、実際に犯人だとしても推定無罪の原則が適用されなくてはならないこと。犯人逮捕後の新聞報道はほとんどが警察の一方的な発表を垂れ流し、ゴシップめいた取材と推測によるものであって、話半分に聞かなければならないこと、また一つの事件に関して、聞く方は、個別の事情や状況等を見ずに、すぐ一般化し、図式化しやすいものであることを厳に自覚し、個別の状況、その思いに目を留めなくてはならないこと等、それは十分に承知しているつもりであるのだけれど、しかしそれにしても逮捕された人物の語ったとされる背景、また取材を受けた人々の証言とされるものは、まさに典型的に今日の日本のキリスト教の状況を反映したものであった。冬に講演をして下さった先生には悪いのだけれども、おそらく事柄はむしろ日本のキリスト教の組織的構造的問題が表出した事態であると言えるだろう。
彼の犯行に至る状況について、新聞は次のように報道している。

容疑者は牧師の人柄にひかれ、毎日教会に通い、掃除や信者の送迎など熱心に奉仕。聖書を熟読し、内容を短冊に書き写して自室に張った。
 しかし2〜3年前、牧師が海外留学したのを機に、「見捨てられた」とふさぎ込むようになった。教会の関係者は「心の支えを失ったようだった」と話す。

ここで気づくのは、彼が教会に通い出したきっかけは「牧師の人柄にひかれ」たことであり、「牧師が海外留学したのを機に」ふさぎ込むことになったと指摘されている。彼に取って教会とは他の何物でもなくその一人の牧師そのものであったのだろう。おそらく彼はそこで本来得るべき宗教的体験を得ることができていなかったのだろう。
にも関わらず彼は「毎日教会に通い、掃除や信者の送迎等熱心に奉仕」する。これが逆に「『これだけ奉仕したのに』と嘆いた。」状況へとつながる。日本の教会は一般に構成人数が少ない割に組織がしっかりしており、組織を維持するための仕事が多い。もちろん他の宗教団体等でもその辺りはキリスト教以上に大変なのだけれども、キリスト教の場合は、良い意味でも悪い意味でも、その仕事に対する見返りが少ない。当然まじめな人であればある程、一生懸命仕事を背負い込んで疲れ果てて教会から去っていくことになる。
教会が大きくならない、責任が集中する。特に、健康と思われる若い男性に仕事が集中しどんどん倒れていく。何のことは無い。一般の会社側会社員を使いつぶしているのとほとんど変わらない構造がここにあるのだ。
この悪循環を抜け出さない限り、キリスト教会は同じことを繰り返すだろう。


以下新聞記事全文引用
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100704/crm1007042253012-n1.htm

「自分の不幸は神の仕業」 教会襲撃、きっかけは池田容疑者の思い込みか
2010.7.4 22:52
 「キリスト教は良い宗教だ」。池田容疑者は以前、聖書を熟読し、毎日教会に通う熱心な信者だった。転機は心酔していた牧師との別れ。「見捨てられた」と恨みに思い、次第に「自分の周りの不幸は神の仕業」と思い込んで教会襲撃という極端な行動に走った。
 池田容疑者が兵庫県川西市プロテスタント系の教会を初めて訪ねたのは23歳のころ。同居する父親(61)らによると、池田容疑者は大阪府内の公立高をわずか半年ほどで中退後、数年間にわたって職を転々としており、当時、バイクで暴走するなど生活が荒れていたという。
 「十字架のネックレスをください」と申し出た池田容疑者を、牧師は「教会に通いなさい」と諭した。池田容疑者は牧師の人柄にひかれ、毎日教会に通い、掃除や信者の送迎など熱心に奉仕。聖書を熟読し、内容を短冊に書き写して自室に張った。
 しかし2〜3年前、牧師が海外留学したのを機に、「見捨てられた」とふさぎ込むようになった。教会の関係者は「心の支えを失ったようだった」と話す。
 父親や親族の病気を「神の仕業」と決めつけ、「これだけ奉仕したのに」と嘆いた。やがて「教会は不幸を招く」と礼拝をやめた。
 父親によると、池田容疑者はこのころ「神の声が聞こえる」と言い始め、夜中の外出が多くなった。事件の始まりもこの時期と重なる。
 「まさかお前じゃないやろな」。今年5月、事件を伝える新聞を読んだ父親が尋ねた。池田容疑者は「何でそんなことせなあかんねん」と否定したが、新聞を持って自室にこもった。以来、事件は止まった。
 4日早朝、捜査員に任意同行を求められた池田容疑者は犯行を認め、「申し訳ない」と家族に言い残して家を出たという。父親は「きちんと償いをしてほしい」と話している。