雑用

思い出してみたら、2008年の11月にドブ掃除の話を書いていた。その続きを考えさせられる話があったので、最初の話から書く。

渡辺和子と言うシスターがいる。私は縁あって、彼女の講演を二回聞いたことがある。実は、どちらもほとんど同じメンバーが集まっている会で、彼女は数年間をおいて、そのほとんど同じメンバーを前に話していることを知っている筈だったのだけれど、ツカミに話したのは同じネタだった。
曰く、

自分が若い頃アメリカの修道院に留学した。修道院の修道士は、日常生活の中で色々な「作業」を任せられる。彼女はまず、食堂で何十人といる修道女のお皿を並べる仕事を任された。単純な作業をこなしていると、先輩の修道女が来て話しかけてきた。
先輩「シスターワタナベ、何を考えながらお皿を並べていますか?」
渡辺「何も(考えていません)」
先輩「お皿を並べる時には、そのお皿を使う人の幸いを祈りながら配るものです」
同じように、彼女が炎天下で草抜きをしていると、また先輩の修道女が来る。
先輩「シスターワタナベ、何を考えながら草を抜いていますか?」
渡辺「何も(考えていません)」
先輩「草を抜くたびに、罪を犯している人が、罪から足を抜くことができるように祈りながら抜くものです」
修道院は祈りの場である。ただ、祈るという行為に時間を多く割くだけでなく、全ての行動が祈りを伴い、祈りそのものであるというのだ。なるほどそれが修道院の力であり、修道院を持つカトリックの力なのだろうなぁと思った次第であった。


その事を受けて、しばらくして、ある日曜の午後に教会の大掃除をした。教会のすぐ前に数メートルにわたって水路がある。ほとんどドブ川並みなのだけれど、雑草が生えるので定期的に抜かなくてはならない。
その日もそのドブを掃除しながら、ふと、くだんのシスター渡辺の話を思い出した訳だ。自分はいったい何を考えながらこのドブの草を抜いているのだろうか。その時、自分が考えていたのは、そこを通りかかる人が「キリスト教の人が(公共の)川の掃除をしてくれている。ありがたいねぇ。」と思ってくれやしないだろうか。と言う極めて卑近な下心だった。ちゃんとシスター渡辺のように、草を抜くごとに隣人の救いや世界平和を祈るようにしなければいけないのかもなぁと思っていた。
しかしその一方で、ふと思い出したのは、コリントの信徒への手紙一の10章31節、「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と言う言葉だった。
そうだよ、修道院は、全ての仕事を祈りと共にすることで生活に宗教的な意味付けをするのだけれど、プロテスタントのわたしたちは、仕事そのもの、生活そのものがそれ自体神から与えられた務めであって、仕事の度に、作業一回ごとにいちいち祈らなくても、それは宗教的な価値ある行為と見なされるのだ。と思った訳。


そこまでが一昨年の話。
で、今日の話。
実は、ちょっとこれも縁あって、某所で、牧師の心得みたいなスピーチを聴くところに立ち会った。
そこで、聞いた話。
牧師の仕事はまず何はともあれ「説教」「御言葉に仕える務め」である。その一方、実際の牧師の日常は極めて多くの雑用の合間になんとか時間を作って聖書に向かい合う時間を作り出している現実がある。それに対して「牧師は説教に集中しなくてはならないから、雑用をさせるべきでない」と言う意見があるが、それは間違いである。牧師は本来的に「雑用のプロフェッショナル」でなければならない。教会の諸々の「雑用」の中で教会について思いを向ける「黙想」を得る。

この後もうちょっと続いたかもしれない。

信徒の立場で言えば、信徒の務めは、礼拝を守ること、祈ること、であろう。その一方で、忠実なクリスチャンであればある程、教会の色々なお仕事に走り回ることになるし、まじめに生活する人であればある程、この世においても色々と責任を負わざるを得なくなる。もちろん、それらも「神の栄光を表す」器であると思わなければならないとは思っていたのだけれども、むしろそこに「教会を思う」ことができるのだ。「仕事」に祈りを伴わせるのでもない。「仕事」を教会とは別の神に仕える道とするのでもない。「仕事」も教会なんだ。


なんだか文章にしてみるとよくわからないけれど、自分としては深く納得したので書き留める。