クラウドアトラス

クラウドアトラスの後半を見た。

要はエンドロールを見て、「えー!あの登場人物ってあいつだったの!」とか「えー!あんなところにあいつ出てたっけ!」とか言って、もう一回最初っから見て下さいねニヤニヤ。って映画だってことだ。
幾人かの役者が別の場面で複数の人間の役をやっているのだけれど、中には指摘されてもそれと判らないほど特殊メイクを施している場合があり、同一の役者が演じているということが、必ずしもそれらの登場人物に一定のつながりを見いださせる為のものとは限っていない。なお、夫々の場面で一人ずつ、流星の形の痣を持つ人物が出て来て、その人がその場面で主人公役になるのだが、その痣の持つ意味はそれ以上の意味を持たない。痣を持っている人物同士の相関関係は無いようだ。そうなるとそもそも、これら複数の場面を結び付けている「転生」の概念自体が、極めて曖昧なものになる。流星型の痣を持つ事はもちろん、役者が共通している事も、前後の人間のつながりを意味しているとは限らない。


となると、これらの物語で、登場人物たちは一体何を目指しているのか判らなくなる。大体、大枠の話で言うと、「航海の物語」でジム・スタージェス、一つ飛ばして「企業の陰謀」でハル・ベリー、又一つ飛ばして「クローン少女」でペ・ドゥナ、そして「崩壊した地球」でトム・ハンクスが「善き人」としてステージを上げるのだけれど、なぜ彼らが「善き人」たり得たかの説明がつかない。それ以前の場面で必ずしも彼らは「善き人」の片鱗を見せていないのだ。また、善き人となった筈のジム・スタージェスハル・ベリーが次の場面で必ずしも「善き人」然としない登場人物として表れる(というか「実はちょっと出ている」)のも事態を混乱させる。
要はシンプルにステージを上げていって「ゴール」(?)に到達してみせたのはペ・ドゥナだけなのだ。


その他、疑問点は
トム・ハンクスが最後に辿り着いたところは、単に移住後の場所であって、「転生後」の世界ではないこと
悪役の登場人物たちは一体、地球滅亡後はどこに転生するのか、それはもしかしたら、トム・ハンクスハル・ベリーが移住した新しい場所なのではないか、つまり、トムの周りにいた子どもたちは、ヒューゴ・ウィーヴィングヒュー・グラントの転生なのではないか。

そして最も根本的な疑問はこの映画における「善き」とは一体なんなのかということだ。「名曲誕生」のベン・ウィショーや「編集者の大脱出」のジム・ブロードベントは、決して「善き人」とは思えない。逆に、奴隷売買や性倒錯、石油産業の保護や老人の強制的収容、そしてクローンの屠殺や食人等に至るものも「今の私たちの」価値観からすれば、悪であるかもしれないが、少なくともその時代のその世界の人々に採ってみれば悪ではないのであり、それは当然、「今の私たちの価値観」をも相対化するべきものなのである。
最後ソンミの三つ目のお告げを守らず、余計な殺人や争いを引き起こしたトム・ハンクスはなぜ悪ではないのか。説明はつかないのだ。

恣意的な価値規準で、「主人公」に都合が良い善悪判断がなされ、結局何も変わらない。そんな話だということになる。

まあ、面白かったかと言えば、面白かったんじゃないかな

映画を見た

クラウドアトラスって映画を地上波の夜中にやっていた。
映画評のラジオで聞いていたりしたので、録画して、昨日前編を見た。
後編はまだ放送していないから見ていない。

でちょっと感想を書きたくなった。
思ったのは、もうちょっと親切な作りにしてもいいんじゃないかということ。
予告編なんかで、複数の物語が入れ子になっていて、俳優が複数の登場人物を演じている事なんかを言っているので、見る人はそのことを前提に見るのだろうけれど、最初何がなんだかわからない。
同じ俳優が演じていても特殊メイクなんかで同一人物だと判らないし、前後の時代を結ぶアイテムも、半分まで見てまだ出て来てない物もあったりで判りにくい。
もうちょっと最初の方で、前後を結ぶアイテムを出すとか、同じ俳優が演じている人は必ず一度は同じ動作をするとか、そんなのがあったら、もう少しお話しに入って行き易いんじゃないかなあ。
後編を見てからまた感想を書こう

定点観測

今日思い出したのは、朝、携帯を見たらニュースに関連の話題が出ていたから。
それ以上でもそれ以下でもない。一日のうちに一回ちょっとそのことに触れたけど、後はいつもの日常。
もう自分にとっては、あの出来事より、今日の方がずっと大きな比重を占めている。(と思う)
仕事のこと、教会のこと、子どもたちのこと、子どもたちの学校のこと、そんなことの方がずっと大きな問題だ。
関東に引っ越して、たぶん、人生の中でJRの神戸線阪急電車に乗ることは後数回あるかないかだと思う。灘や長田の辺りを歩くこともほとんど無いだろう。
もちろんあのことを忘れるわけではなく、自分の物事の判断に大きな影響を与えているし、与え続けて行くと思うけど、それはもう自分の血肉だ。
もしかしたら来年はもう書かないかもしれない。

国会の乱闘

国会の乱闘を見ていて、いろいろ考えた。
まず大前提として、乱闘乱闘と言うけれど、あれはいわゆる乱闘ではない。例えば野球の乱闘見たいに「ビーンボール」みたいな発言があって、それに対して瞬間的に怒って殴っちゃったと言うのが乱闘ならば、今回は違う。以前、代表質問中に下劣なヤジに怒ってコップの水をぶちまけた議員が居たけど、あれがそのまま殴り合いにでもなれば、ここで言う乱闘に当てはまるかもしれない。
暴力を振るうことによって反対者をその場から駆逐したり、力にものをいわせて賛成に立場を変えさせる等と言う意味での乱闘も、少なくとも他人の目のあるところで行われる筈がない。「金にモノをいわせて」と言うのが現在でもなされているのかももちろん分からない。味方を固めるためにであっても、表に出ない金と言うのはなかなか難しいだろうし、ましてや反対者に対してそのような危険を冒すことはほとんど無いのではなかろうかと思う。
私たちがよく見る、採決の時等に委員長に掴み掛かったり、取り囲んだりというのは、完全に予定され準備された行動であり、双方ある程度予想の範囲内の行動である。そして明白な目的がある。それは「議事進行妨害」だ。それでいうと、牛歩も不信任案や問責決議案の乱発や審議拒否等々の行為も目的は一緒であり、同様の行動ということになる。
実際に効果があるかは別にして、これらの議事進行妨害の目的は「会期切れ」であると思われる。会議のルールとして、会期終了時に継続審議の手続きがされない議案は廃案となる。そこで反対する少数者が最も有効にその議案を潰す手段が会期切れを目的とした議事進行妨害である。
時々東アジアのいくつかの国で国会での乱闘騒ぎがおもしろおかしく報じられることがあるが、おそらくいずれも同様の目的のためのものと思われる。その一方、この手の乱闘を欧米の議会で見ることはあまり無いように見受けられる。ちょっと検索してみると、「イギリスの議会でも激しい言葉の応酬はあります」なんていう記事もあったけれど、それは上述のようにあまり関係ない。アメリカの議会を見て居たら「フィリバスター」と言う記事が出て来た。連邦上院で特に少数側が長時間に渡って演説し議事を遅延させる行為のことである。日本の「牛タン戦術」と似ているが、根本的に異なるのは、「フィリバスターをする目的は多数派からの譲歩を引き出すことである。(wikipedia:議事妨害)」ということである。「弁士となる議員がフィリバスターをおこなっている間に、同調議員が多数派の切りくずしや取り引き工作、法案・条項の修正をもとめる交渉などを行う。(同)」その結果、現在では、実際に長々とした演説がされることは無く、フィリバスターが宣言されると議事が停止され、「軽視できない少数派と多数派が意見調整する(同)」事になるそうだ。
翻って、我が国のこととなると、どんな長い演説や質疑が行われようとも、直接間接的にその行為によって多数派が切り崩されるということはほとんどあり得ない。モメにもめた最終段階で、いざ不信任案を投票する際に多数派から不信任票が投じられることがない訳ではないが、極めて稀な例である。先に挙げた日本の議事進行妨害の目的に次ぐ第二の目的は、直接多数派を説得したり、そのための時間を作り出すことではなく、妨害工作によって、有権者の興味を引き、出来れば与党側の横暴さを演出し、世論の支持率を落とそうとするもの、出来ればその結果として多数派を切り崩そうとするものであろう。
フィリバスターが直接多数派に対しての切り崩しや、直接切り崩しを行うための時間稼ぎとして機能しない最も大きな理由は、日本の政党は「党議拘束」が厳しいということにある。よほど大きな変動が起こらない限り、直近の選挙結果による議席配分は動かない。先の選挙の時に全く課題とならず従ってどんな民意の反映も受けていない課題についても、有権者は全面的に「党」に委任せざるを得ないし、議員は自らの属する「党」の判断に従わなければならない。もしそこで自分の意志がその党の決定と異なるならば、党から放逐されることを覚悟しなければ、自分の意志を表明することはできない。これはとても大きな障壁になる訳だ。
振り返ってみたら、6年前に、こんな文章を書いていた。

ただし、問題なのは、ほとんどの国会議員が「党議拘束」というものによって縛られており、投票行動が本人の思想信条と一致しているとは限らないことがほとんどであるということである。なんで「党議拘束」なんてものが許されるんだろう?

改めて本当に何でだろう。

このところ、日本のデモがちょっと不思議だ

今回いきなりではないのだろうけれど、「自主的に集まった学生」とか「自主的に集まった主婦」とかが目立つようになって来た。シールズは、SNSで自然発生したのではなく、少なくともその中核部分は某全寮制私立高校の同窓生の人間関係が核になっているらしいということが明らかになって来たけれど、それでもそれ以外の多くの人々は「それまで政治運動に縁遠かった市井の若い人々が、ネットと言う媒体によって動き出した」と見做されていた。一昨日だったかにも、ニュースのインタビューで某芸能人がそんな風に評価していた。
補強するかのように二人の人がインタビューに応えていた。一人は子どもを抱いた若い主婦で、「ニュースを見て居ても立ってもいられなくなって……」てなことを答えていた。もう一人は若いサラリーマンで、「朝ニュースを見て会社に電話して半休とって来ました。これから会社に行きます」等と答えていた。いったい、その日の朝電話して来て「今日午前中国会前のデモに参加するので半休下さい」等と言って、許可が出る勤め先ってのは、いったいどこなんだろうと思ってしまった。
彼がもし、休む理由を会社に明確に伝えていなかったとしたら、テレビのインタビューでべらべらと喋るのは彼の今後の評価にかかわるのではないだろうか。件の奥さんも、旦那の職場での立場に影響が出る可能性は全くないのだろうか。
私は何を隠そう、そういうちゃんとした会社勤めをしたことがないので良く知らないのだけれど、そんな風に半休をとることができる社員が入るということに驚いた。よほど余裕があるよほどなのか、よほどその手の活動に寛容な職場なのか、それとも、よほどその手の活動に参加することが守られたり、むしろ推奨されるような職場なんだろうなあ。と感じた訳です。

回りくどく話すのは止めよう。
要は、左翼の人たちは、直接自分たちの組織を動かして人を動員することが、周りからあまりよく見られていないと言うことに気づいたんだと思う。そこで、直接自分たちとは関係が内容に見える組織を作って、その組織を通して動員する。時にその組織は、ネットだったりSNSのつながりと言う緩い組織だったりするのだけれども、しかしその中核にはキッチリとした組織的な人材が配置されていると言う仕組みになっているのではないかと思う訳でだ。
そう思うと、あそこにいる人たちの「自発的な」と言う言葉にうさんくささを感じてしまう。

また、ボチボチ書き出そうと思う

首都圏に転居して一年と少し経った。
つくづく思うのは、首都圏は余裕がないということ
鉄道は毎朝毎晩溢れるほどの人間を乗せて走っている。ちょっとトラブルがあるとすぐに何万人と言う人に影響がある。その割に、そういった遅れを許容しない。人々は雨が降ろうが槍が降ろうが自分の仕事場に向かい、まるで雨等降っていないかのように仕事をする。
四国はそうではなかった。ちょっと風が強いと瀬戸大橋が止まる。視界が悪くなると連絡船も止まる。嵐になると各県庁所在地の間の交通が遮断される。そうなれば、少なくとも移動を伴う仕事は止まらざるを得ない。
先日も台風の中会議があった。首都圏だけでなく、仙台や名古屋からも普通にメンバーが集まるのだから、不思議なものだと思った。


空間についても余裕がない。過日の台風に伴う氾濫は、大きな被害をもたらした。その時思ったのは、江戸時代以前であれば、川を氾濫させる地域を意図的に作っていたのではないかということだった。具体的な例として適切か判らないけれど、木曽三川が愛知側の堤防を高くし、岐阜側の堤防を低くしていると言った話も聞く。(ちょっと検索すると、必ずしもそんな簡単な話ではないようだけれど……)
震災の津波の時にも思ったのは、津波の来るようなところに住居を造らなければ良いのにということだった。おそらく、最初のうちはそうなるかもしれない。けれどもやがて、低地も宅地となり、人が住むようになるんだろう。日本と言う国土が、これだけの人口を抱えるには狭すぎるのだ。


100パーセント稼働させなければ支えられないような仕事量で通常の運転をしていると、何かトラブルが起こった時に、取り返すことができない。それを自転車操業と呼ぶ。日本と言う国自体が、地理的に社会的に自転車操業となっているように感じた。