「三びきのやぎのがらがらどん」と自己犠牲

三びきのやぎのがらがらどん」という昔話の絵本がある。自分が子どもの頃からあって、印象的な絵本の一つだった。だからこそ自分の子どもにも買ってあげて読んであげた。
ところで、この話で昔から不思議だったのは、どうして大きな山羊のがらがらどん(以下「がらがらどん(大)」他も同様)は、最初に自分が橋を渡って、トロルをやっつけて、他の二匹を安全に渡してあげなかったのか、他の二匹を先に行かせて命の危険に曝すのかということだった。
ところが、子どもに読んでいて気付いた事がある。あのお話で、がらがらどん(大)は、トロルにも怯まずに、がらがら声で叫び、角とひずめでトロルをバラバラにしてしまう。それは、一種壮快な場面として描かれ、がらがらどん(大)の強さを際立たせる。しかしおそらく、がらがらどん(大)とトロルの実力の差はそれほど大きくはなかったのではないか、彼はかろうじてトロルに勝利することが出来たのであって、勝つか負けるかは事前には全くわからなかったのではないか。そう考えると、先の疑問も氷解するのである。

もし、がらがらどん(大)がトロルに勝つことが事前にはっきりとわかるほど実力差があったならば、がらがらどん(大)が最初にトロルを始末し、がらがらどん(中)とがらがらどん(小)が後から安全に渡るのが最善の策である。しかし、もしがらがらどん(大)の勝利が保証されないのであれば、がらがらどん(大)が最初に渡って万が一破れてしまうと、がらがらどん(中)やがらがらどん(小)は渡ることが出来なくなってしまう。そこで、まず、がらがらどん(小)とがらがらどん(中)がそれぞれ渡る。がらがらどん(小)とがらがらどん(中)は、後から来るがらがらどん(大)に全てを託す。そして、最後にがらがらどん(大)が勝利して、めでたしめでたしということになるのである。
がらがらどん(大)は、自身の危険を担保にして、がらがらどん(小)とがらがらどん(中)の安全を保証する。これはまさに他者のための自己犠牲の精神である。がらがらどん(小)とがらがらどん(中)は、後から来る者を売って自分だけ助かろうとするのではない。後から来るがらがらどん(大)が命を落とすかもしれない事を知った上で、その危険を負ってまで自分達を助けようとするがらがらどん(大)の思いに応えるために、一頭ずつ恐ろしいトロルの前に立ち、自分が言うべきセリフを忠実に述べるのである。
結果、小、中、大の順番で渡ることが、トロルとがらがらどん(大)の実力差がどちらであったとしても、最大限利益を得るための最善の作戦ということになる。


さて、「がらがらどん」で検索したところ、http://d.hatena.ne.jp/losthuman/20061217/1166299288というエントリーを見つけた。私とは全く違う考察がされている。
問題設定は一緒で

なぜトロルの待ち構える橋に小、中、大の順でヤギが訪れたのか?

であるが、かのエントリーの結論は、

"力こそ正義なのではない、ただ力に逆らえないだけだ"といったお話だったはずです。

となる。具体的に、小、中、大の順番をとった理由について、がらがらどん(大)は、

最後尾のがらがらどんは,・・・(中略)・・・トロルなぞ何するものぞ、無礼なヤツメ打ち首獄門じゃ、とは言わないですが、絡んできたトロルを引きちぎって押し通ります。別に生命の危険に晒された訳でもなく取り急ぎ小さいヤギを助ける必要があったわけでもなく、目障りだから殺した、としか思えないです。

がらがらどん(小)とがらがらどん(中)については、

"小さいヤギと中くらいのヤギは、トロルよりもがらがらどんに脅かされていた。"

と言っている。

自分と同じことに興味を持ち、一年半も前にエントリーしている人が居た事は嬉しいことであるし、その文章は興味深く読むことが出来たけれど、はっきり言って、彼の結論は間違っています。間違いの原因は、三匹の山羊が、ともに「やぎのがらがらどん」である事を忘れていること。そのため、がらがらどん(小)とがらがらどん(中)とがらがらどん(大)が、理解を共有し、お互いに信頼感で結ばれていること、自己犠牲を払っても他を助けようとする愛を持っていたことを見逃していることである。
三びきのやぎのがらがらどんは、

暴力、権力、財力、軍事力、いずれも持ちすぎた個人は孤独、ということなのでしょうか?そして同時にその他大勢は、恐れながらもがらがらどんを頼って生きているのでしょうか。

等という話ではない。
弱者を守りつつ、最大限の利益と最小限の損失を獲得するためにどのような策をとったらよいか、それぞれは自身の役割をいかに果たすべきかという社会に対する知恵であり、同時に、他人を愛し、他人を生かすために何をすべきか、その愛を受けた者はどう応えるべきか、キリスト教の愛の精神に通じる深い愛の姿を教えているのである。