不幸な人生

業田良家小林よしのりの雑誌で描いた(らしい)「慈悲と修羅」という漫画を読んだ。ネットで公開されているので、見て貰うのが話が早い。ただしグロ耐性が無い人、激し安い人、小林よしのりの政治的立場に耐えられない人は止めておいたほうが吉。あとで苦情を言われても責任は持てない。
http://www.geocities.jp/my_souko/goda_01.htm
それと、これから書くことは、小林の政治的立場に絶対的に賛成の人、ヒューマニズムが大好きな人は読まないことをお勧めする。読んでから苦情を言われても責任は持てない。


と、予防線を張っておいて。。。
慈悲と修羅」は、作品内では明示せず、むしろ、「大華人」「大華文字」とぼかしているが、トップページにははっきり「チベット漫画」と題されているので、明らかに中華人民共和国チベット自治区仏教徒に対する迫害(というか拷問と虐殺と暴行)を描いている。
実際似たようなことは行われているのだろう。私たちはそのことに目を背けてはならないし、黙っていたり、座したままではいけない。
「似たようなこと」「いるのだろう」と書くのは、この情報がマンガだからだ。漫画に必然的に付随する、戯画化、デフォルメ、編集が、事実と描写をどこまで遊離させているかは問われなければならないだろう。もし、その描写と事実の遊離が「良心的な報道者」としての範囲を越えていた場合、表現者はその責任を問われるだろう。かつて、論争相手を意図的に醜悪に描いたとして訴訟にまで持ち込まれた経験のある小林よしのりであれば、そのあたりの覚悟はできているだろう。


それはそれとして、私が思ったのは業田良家についてである。彼の代表作と言えるのは映画化もされた「自虐の詩」であろう。この漫画は好きだった。当初ナンセンス4コマ漫画であったこのマンガが「ドラマチックな展開は『泣ける4コマ』として定番になっている」とウィキペディアで評される程になったのは、ひとえにその最後の部分でのセリフ、「人生には幸福も不幸もない。ただ意味がある」にある。作者自身が、作品内のセリフを引用して、このように記している

私たちは泣き叫んだり立ちすくんだり…でもそれが幸や不幸ではかれるものでしょうかこの世には幸も不幸もないのかもしれません人生には意味があるだけですこの人生を二度と幸や不幸ではかりません「…幸や不幸はもういい」「どちらにも等しく価値がある」「人生には明らかに意味がある」      業田良家 「自虐の詩

自虐の詩の幸江は傍目には不幸のどん底である。その中で彼女は自らが身ごもることによって、母親との関係を再構築し、上記のセリフに達する。


一方、慈悲と修羅の主人公ガンポは、妻が自分を虐待してきた大華人によって身ごもらせられたこと、その結果生まれた「自分の子」を自分が愛せないこと、親子の関係を築くことが出来ないであろうことに絶望して自ら命を断つ。
業田良家は「この世には幸も不幸もないのかもしれません」と言いながら、幸江は、(少なくとも彼女自身の視点からは)幸いな妊娠で、親子の関係を回復して生きる意味を見出すが、ガンポは不幸な妊娠で親子の関係を失い、自身の生きる意味をも見失ってしまう。
慈悲と修羅の発表年がいつかは知らないが、まさか自虐の詩より以前ではあるまい。プロパガンダマンガとしては優れているのだろうが、彼はこの作品で、自身が到達して見せたかつての境地が全く虚像であることを暴露してしまった。

ガンポのような人生さえ生きる意味があると言えるのがキリスト教だと言いたいのだけれど、口だけでなく、実際に胸を張れるようにならなければいけないのだろうな。。。