洗礼と聖餐

以前書いた話の方が亡くなった。思っていたよりもずっと早い召天だった。結局洗礼は受けずに亡くなった。今考えてみると、役員の人は、私らなんかは知らない彼の状況を把握していて、急がないといけないと分かっていたのかもしれない。でも、それにしてもあの時の言い方はちょっとと今でも思う。
最近、某日本最大のプロテスタント宗派では、洗礼を受けていない人が聖餐式に参加できるかと言う問題でもめている。私もちょっと書いたことがある。(参照参照
それと、今回のこれは、問題の根っこがちょっと似ている。聖餐式も洗礼も、キリスト教では最も重視される「礼典」である。それを受けることは信者の特別な喜びである。その喜びを出来るだけ多くの人に味わって欲しい、そこから受ける恵みとか、心の平安を出来るだけ多くの人と共有したいというのは、こちら側にいる人間共通の希望だ。礼典はそれだけ大きな「恵みの源泉」である。しかしそれは、「信仰の源泉」「救いの源泉」ではない。むしろ、信仰が礼典を恵みの源泉たらしめる。そうでなければ、礼典は信仰的な儀式ではなくなり、単なるマジックに堕ちてしまう。どんな人でも頭に水を注いだり、お祈りをしたパンとぶどう酒を食したりしたら幸せになって悩みが無くなりますなんて言うのは、下手な霊感商法よりも酷い。信仰を持っているから初めてただの水やただのパンやぶどう酒がアリガタイものになるのだ。まず信仰を確認することが、礼典の前提でなければならない。「回りが少し強引にでも授けちゃいました」なんて言うセリフは出て来るはずが無い。
 もちろん、その人に信仰が歩かないかを見定めるのは、人間である牧師や教会の役員であって、それが本当に正しいかどうかは分からない。教会がまだその人の信仰を認めていなくても、実際には既に信仰がある人もいるかも知れない。教会の礼拝に出席したということだけでも、ある信仰を見出せるかもしれない。しかしそんなことを言い出したら不可知論に陥らざるを得ない。どこかで線引きは必要だと思うし、それが傲慢だと言われようともその傲慢さを自分たち地上にある教会の負い目として担わなければ、教会なんてやってられないよ実際。