リードオルガン

知らない人はびっくりするかもしれないけど、今、リードオルガンの新品を買うことはできないらしい。
国内でリードオルガンを製造しているメーカーがなくなったこと、つまり、ヤマハとかのメーカーがリードオルガンの製造を中止したことを知ったのはしばらく前のことだ。
先日ある別の教会の人に聞いたら、一社〜二社あった海外のメーカーも今現在作っていないのだそうだ。
私が子供の頃は学校の音楽室に足踏みオルガンがあったもんだけど、今は全部電化されているのだろうか。
教会がオルガンを買うというと、電気オルガンか頑張ってパイプオルガンをって話のようだ。一時に比べると国内でもパイプオルガンを造る人が増えているように思うけれど、当然のことながら桁違いに高価だ。
そもそも電気であってもパイプであっても日本の教会の標準的な広さに比べると規模が大きすぎる。かといって小さければ良いというものでもない。パイプオルガンは小さくしても値段が安くなるわけではない。むしろ構造が細くなって大変なんだそうだ。電気のオルガンはこれはもうスピーカーのサイズによるんで、小さければ小さいほど特に低音が響かない。安価なキーボードと大差無くなってしまう。
なぜ、細々とでもリードオルガンを作るメーカーがないのだろうか。先日この話題でちょっと検索したら、とてもアンティークな9ストップ(そこそこの機能を持ってるくらいの意味ね)のオルガンが6桁前半で売られていた。多少大きなスペースで音が鳴るように工夫して、7桁前後でも需要があるんじゃないだろうか。
リードオルガンの音が好きなんだけどな。

宮◯駿と食べ物と水

このところまたジブリ映画をやっている。
面白いから録画してみるんだけれど、いつも思うのは、この人はあまり人間が生きるということに興味がないのではないかということだ。こんなことを書くとおかしいと思われるかもしれない。ジブリの映画は人間の生について主題としているし、彼が描写する生活の様々な情景はとても豊かな表現であると折り紙付きだからである。
けれども、私はそうは思わない。一番良い例が、彼の食べ物についての描写である。何を言うか、彼の卓越した描写は特に食事シーンに表れているではないかと言われるだろう。例えば先週やっていた「千と千尋」冒頭の両親の食事シーン、神々やカオナシの食事描写はとても素晴らしいと言われる。けれども、あの両親が食べている饅頭や肉はいったい何でできているのだろうか。ラピュタに出てくるトーストに乗せた目玉焼き。あんな風に白身を加えてぶら下げてタランと垂れてでも破けない白身と黄身はいったいどうやったら作れるのだろうか。古くはカリオストロの名シーン。次元とルパンのスパゲッティー。あの引っ張りあって伸びても千切れないパスタは決して小麦粉で作られたとは思えない。むしろゴムとかシリコンを想像させないだろうか。あれらの食べ物がリアルな食べ物とは決して思えない「何か」にしか見えないのは私だけだろうか。
水について。震災以来サザンのTSUNAMIがかからなくなっているそうだけれど、ポニョはなぜ平気なのだろうかと心配するわけだが、あの映画に出てくる水は、とても水と思えないほど極めて粘度が高い。先週の千と千尋でもそうだった。水が水とは思えない。その中で呼吸ができ、むしろ生き生きとする、いわば羊水のような正体不明の液体が溢れている。ポニョの津波シーンはあの当時はある一定のリアリティーがあったと思うけれど、震災のあの映像を突きつけられた後には、単なるファンタジーに過ぎなくなってしまった。そもそも宮崎作品は、古くはカリオストロでもそれこそコナンでも、特に引力に関して物理法則を無視したシーンが多い。彼の動きは重力の影響が低いないしは粘度の高い液体中で行なわれているようなのである。
彼はしきりにオタクと呼ばれる人たちを批判し、社会に自然の中に出ていくことを勧めるが、彼自身彼の世界の中に収まってしまっているように思うのは私だけだろうか。

プロテストソング

最近、何のきっかけか忘れたけれど、忌野清志郎の曲をYOUTUBEで検索しては聞いている。
彼は本当にプロテストソング歌いだったなぁと思う。
君が代をパンク風にアレンジして歌った動画も挙がっていて、色んな人が色々言ってるけれど、
そこに(権)力が在ったら抗うのはロックの本質でしょう
そういう歌うたいがいなくなったなあと思う。

清志郎の曲を流していると、大抵いつも甲本ヒロトとのジョイントが流れ、そこからブルーハーツになってしまう。
ブルーハーツと言えばパンクを青春パンクに矮小化した大本みたいな印象があったけれど、リンダリンダにしても他の曲にしても絶望的な力の前で、なお力強く拳を握って声をあげるという随分パンクなぶつかりかたをしている。
ただ、ヒロトたちの言葉のセンスはとてもすぐれ(過ぎ)ているので、その毒が美しく見えてしまうのだろう
ブルーハーツを見ていると清志郎のプロテストは泥臭く青臭い。でもドブネズミが美しいと言った時に、ドブネズミの汚らしさは見失われるのだろう。そして、美しいといっているその本当の美しさも見失われてしまう。なぜなら、ドブネズミの美しさは汚らしさの中にあるから

クラウドアトラス

クラウドアトラスの後半を見た。

要はエンドロールを見て、「えー!あの登場人物ってあいつだったの!」とか「えー!あんなところにあいつ出てたっけ!」とか言って、もう一回最初っから見て下さいねニヤニヤ。って映画だってことだ。
幾人かの役者が別の場面で複数の人間の役をやっているのだけれど、中には指摘されてもそれと判らないほど特殊メイクを施している場合があり、同一の役者が演じているということが、必ずしもそれらの登場人物に一定のつながりを見いださせる為のものとは限っていない。なお、夫々の場面で一人ずつ、流星の形の痣を持つ人物が出て来て、その人がその場面で主人公役になるのだが、その痣の持つ意味はそれ以上の意味を持たない。痣を持っている人物同士の相関関係は無いようだ。そうなるとそもそも、これら複数の場面を結び付けている「転生」の概念自体が、極めて曖昧なものになる。流星型の痣を持つ事はもちろん、役者が共通している事も、前後の人間のつながりを意味しているとは限らない。


となると、これらの物語で、登場人物たちは一体何を目指しているのか判らなくなる。大体、大枠の話で言うと、「航海の物語」でジム・スタージェス、一つ飛ばして「企業の陰謀」でハル・ベリー、又一つ飛ばして「クローン少女」でペ・ドゥナ、そして「崩壊した地球」でトム・ハンクスが「善き人」としてステージを上げるのだけれど、なぜ彼らが「善き人」たり得たかの説明がつかない。それ以前の場面で必ずしも彼らは「善き人」の片鱗を見せていないのだ。また、善き人となった筈のジム・スタージェスハル・ベリーが次の場面で必ずしも「善き人」然としない登場人物として表れる(というか「実はちょっと出ている」)のも事態を混乱させる。
要はシンプルにステージを上げていって「ゴール」(?)に到達してみせたのはペ・ドゥナだけなのだ。


その他、疑問点は
トム・ハンクスが最後に辿り着いたところは、単に移住後の場所であって、「転生後」の世界ではないこと
悪役の登場人物たちは一体、地球滅亡後はどこに転生するのか、それはもしかしたら、トム・ハンクスハル・ベリーが移住した新しい場所なのではないか、つまり、トムの周りにいた子どもたちは、ヒューゴ・ウィーヴィングヒュー・グラントの転生なのではないか。

そして最も根本的な疑問はこの映画における「善き」とは一体なんなのかということだ。「名曲誕生」のベン・ウィショーや「編集者の大脱出」のジム・ブロードベントは、決して「善き人」とは思えない。逆に、奴隷売買や性倒錯、石油産業の保護や老人の強制的収容、そしてクローンの屠殺や食人等に至るものも「今の私たちの」価値観からすれば、悪であるかもしれないが、少なくともその時代のその世界の人々に採ってみれば悪ではないのであり、それは当然、「今の私たちの価値観」をも相対化するべきものなのである。
最後ソンミの三つ目のお告げを守らず、余計な殺人や争いを引き起こしたトム・ハンクスはなぜ悪ではないのか。説明はつかないのだ。

恣意的な価値規準で、「主人公」に都合が良い善悪判断がなされ、結局何も変わらない。そんな話だということになる。

まあ、面白かったかと言えば、面白かったんじゃないかな

映画を見た

クラウドアトラスって映画を地上波の夜中にやっていた。
映画評のラジオで聞いていたりしたので、録画して、昨日前編を見た。
後編はまだ放送していないから見ていない。

でちょっと感想を書きたくなった。
思ったのは、もうちょっと親切な作りにしてもいいんじゃないかということ。
予告編なんかで、複数の物語が入れ子になっていて、俳優が複数の登場人物を演じている事なんかを言っているので、見る人はそのことを前提に見るのだろうけれど、最初何がなんだかわからない。
同じ俳優が演じていても特殊メイクなんかで同一人物だと判らないし、前後の時代を結ぶアイテムも、半分まで見てまだ出て来てない物もあったりで判りにくい。
もうちょっと最初の方で、前後を結ぶアイテムを出すとか、同じ俳優が演じている人は必ず一度は同じ動作をするとか、そんなのがあったら、もう少しお話しに入って行き易いんじゃないかなあ。
後編を見てからまた感想を書こう