宮◯駿と食べ物と水

このところまたジブリ映画をやっている。
面白いから録画してみるんだけれど、いつも思うのは、この人はあまり人間が生きるということに興味がないのではないかということだ。こんなことを書くとおかしいと思われるかもしれない。ジブリの映画は人間の生について主題としているし、彼が描写する生活の様々な情景はとても豊かな表現であると折り紙付きだからである。
けれども、私はそうは思わない。一番良い例が、彼の食べ物についての描写である。何を言うか、彼の卓越した描写は特に食事シーンに表れているではないかと言われるだろう。例えば先週やっていた「千と千尋」冒頭の両親の食事シーン、神々やカオナシの食事描写はとても素晴らしいと言われる。けれども、あの両親が食べている饅頭や肉はいったい何でできているのだろうか。ラピュタに出てくるトーストに乗せた目玉焼き。あんな風に白身を加えてぶら下げてタランと垂れてでも破けない白身と黄身はいったいどうやったら作れるのだろうか。古くはカリオストロの名シーン。次元とルパンのスパゲッティー。あの引っ張りあって伸びても千切れないパスタは決して小麦粉で作られたとは思えない。むしろゴムとかシリコンを想像させないだろうか。あれらの食べ物がリアルな食べ物とは決して思えない「何か」にしか見えないのは私だけだろうか。
水について。震災以来サザンのTSUNAMIがかからなくなっているそうだけれど、ポニョはなぜ平気なのだろうかと心配するわけだが、あの映画に出てくる水は、とても水と思えないほど極めて粘度が高い。先週の千と千尋でもそうだった。水が水とは思えない。その中で呼吸ができ、むしろ生き生きとする、いわば羊水のような正体不明の液体が溢れている。ポニョの津波シーンはあの当時はある一定のリアリティーがあったと思うけれど、震災のあの映像を突きつけられた後には、単なるファンタジーに過ぎなくなってしまった。そもそも宮崎作品は、古くはカリオストロでもそれこそコナンでも、特に引力に関して物理法則を無視したシーンが多い。彼の動きは重力の影響が低いないしは粘度の高い液体中で行なわれているようなのである。
彼はしきりにオタクと呼ばれる人たちを批判し、社会に自然の中に出ていくことを勧めるが、彼自身彼の世界の中に収まってしまっているように思うのは私だけだろうか。