インターネットって
インターネットが一般的になってきた頃、このツールはすべての人々に知識と自由と平等をもたらすと思われた。
しかし現状はどうだ。ニュースも情報も検索結果も、偏り、悪意と反知性に満ちている。人々を対立軸に当て嵌め、単純化し、実質を伴わない二極化を幻視し、同意を強制する。異なる者を「論破」し、侮蔑し、排除することを正義と呼ぶ。
インターネットによってもたらされたのは偏狭と敵対心と攻撃ではないか。
ネットによる集団知性は幻想だ
人間は内燃機関の発明によって、自分では対応できないスピードと運動エネルギーを手に入れた。同じくインターネットの発明によって、自分では対応できない憎悪を手にしてしまった。
開けてしまったパンドラの箱、食べてしまったアダムのリンゴは元に戻せない
定点観測2021
いよいよ一年に一度書くか書かないかといった状況。
コロナ禍で日常のリズムが崩れまくっている中、今日が何日であるか、1月17日がなんの日であるかしばらく思い出せなかった。
これでここも書かないと本格的に忘れてしまうと思う。
2年ぶりの定点観測
ちょっと伝があって、立川防災館というところに行った。
はっきり言ってとてもイヤな気持ちになった。これは吐き出しておかなきゃいけないと思ったので今日書く。
幾つかの体験をしたのだけれど、壊れた家の中から人を助ける訓練とか、倒れた家具の下の人を助ける訓練とか、不快だった。
どこの家に家具を持ち上げるテコにできる一辺15センチの角材と大人が全体重をかけても曲がらない長さ1m以上の鉄パイプとかがあるんだろうか。
家が潰れた時に、長さ15cmのノコギリ一本で屋根を切って人を引っ張り出すなんてことができるだろうか。
身構えているところに「はい震度7です!」って言われて、テーブルの下に頭を突っ込む体験に何の意味があるんだろうか。
最終的に映画館みたいな部屋で、神戸の震災で生き残った人の証言フィルムみたいのを見せられそうになったので、気持ち悪くなるのが目に見えてわかったので、早々に出てしまった。
中身を見てないからわからないのだけれど、生き残った人がどうやって生き残ったかを聞いても、生き残れなかった人をなぜ助けられなかったかを聞いても、同じ経験をする機会なんて訪れない。
要は、大多数の人が、簡単な怪我は治せる。三日くらい野宿ができる。大工仕事が一通りできる。ようになればいいんだよ。
死刑執行
何気なくテレビをつけたら、松本死刑囚の死刑が執行されたとのニュースを流していた。
あの事件は日本の宗教史においても記憶されるべき出来事であった。日本の宗教法人法は、宗教界に自浄作用が働き、自分たちで律するもの、少なくとも相互に律することができるものであるという信用の上に成り立っていた筈だ。しかし、キリスト教はもちろん、仏教も、その他の宗教もオウムを止めることも、警告することもできなかった。
そして宗教が物理的な他者攻撃能力を持つことも社会の想定外だった。詐欺や家庭放棄などはあったけれども、物理的に他者の命を奪うことを宗教が容認したり、ましてや推進、強制することなどありえないと思っていた。
しかし、宗教は暴力を容認するものであるし、日本の宗教界は相互検証能力相互警告能力を持っていないことが明らかになった。政府は宗教団体を行政による検査対象とみなすようになったし、社会は宗教を暴走しうるもの、自分たちの生活と身体を侵害しうるものとみなすようになった。
宗教家はこの日を宗教が処刑された日として記憶しなければならない