確かに決めつけるのはよくないです。自戒自戒。

これはあくまで軽口ですので、決して深刻に抗議するとか言うものではありません

キリスト教徒の方と話をしますと、どうも日本人の価値観を誤解している人が多い。キリスト教徒の方はキリスト教の価値観で人生を全うされるとよいわけで、日本人の価値観に踏み込まれるのは如何かと思います。

私はキリスト教徒ですけれど、同時に(民族的にも社会的にも経験的にも)日本人なんで、なんだかこう書かれると「お前はキリスト教徒だから日本人の価値観に踏み込むな、勝手に日本人ではないキリスト教徒してろ」とか言われているようで悲しいです。ヨヨヨヨ。(と泣き崩れてみたりして)


閑話休題
日本にキリスト教が入ってきて以来、この「日本人でありかつキリスト教徒である」ということをどのように実現するかは、ずっと続く悩みです。少なくとも仏式の葬儀をすることは「日本人の価値観」ではなく「(日本の)仏教徒の価値観」ですし、神道的な死者に対する「忌み」の感覚も、本当に日本人の価値観と不可分の本質なのか問うことは必要だろうと思います。

もう一つ、日本はキリスト教を受容しています。憲法で信教の自由が認められています。ですから、キリスト教の教会が沢山存在しているのです。何を信じるかは、個人の自由です。日本人を無理矢理キリスト教に改宗させようとして、キリスト教の理念を曲げでしまっては、かえってキリスト教の魅力がなくなるでしょう。憲法で信教の自由が保障されているのですから、それぞれの宗教が、それぞれの主張をし、日本人一人一人が選択すればよいだけではないでしょうか。

もちろん、一部の国のように、キリスト教徒であるだけで拘束されたり、社会的対立の原因になったりというのに比べれば、日本のキリスト者は信教の自由を謳歌していると思います。けれども、キリスト者になってみると、それまで当たり前だと思って気にもしなかったことに結構気づいてしまうんですよ。
もちろん、キリスト教国に行けば、逆のことがあるでしょう。例えば、アメリカ大統領は宣誓の時に聖書に手を置きますが、仏教徒アメリカ大統領になる時にはどうするんでしょうね。

私は何も日本人を一人残らずキリスト教徒にしようと思っている訳ではありません。この一連のエントリーは、仏教徒キリスト教徒がどちらも満足するような葬儀の様式について考えを巡らしているだけです。
その意味では、rebunさんや、以前同様にコメントくださったragarajaさんの指摘はとてもうれしいものです。またよろしくお願いします。