対話

先日のエントリーにコメントをつけていただきました。以前にもコメントいただいた方で、感謝です。(なお、この関連では、こんな記事も書いています。)

先回は「エントリーで……」といいながら、お待たせしたので、今回はいきなり書きます。
rebunさんの指摘は下記の通りです。

>>「手を合わせる」と言う最低限の挨拶をすることで、相手との人間関係を整理しておく。

「整理」という表現にどうも違和感を感じます。私ども日本人は、哀悼の念を持って手を合わせるのであって、自分の心を整理するために手を合わせるのではありません。整理するために手を合わせるのであれば、自分自身のことだけしか考えていないことになります。自分自身の心を整理するために手を合わせるのではなく。故人を想い、故人の気持ちを忖度するのです。勿論結果的に自分自身の心を整理することにはなりますが、これが始めの目的ではありません。

最大の問題は、私の言葉の選び方であって、言い訳になるかもしれませんが、「整理」という言葉を使う時に躊躇したのは事実です。もっとよい表現があると思います。


キリスト教徒は「手を合わせる=死者礼拝ないしは死者のための祈り」であると理解し、死者礼拝は偶像崇拝であり、死者のための祈りは信仰義認の教理にそぐわないと判断し、それを避けます。その種の意味合いの行為は必要ないと考えるからです。しかし、もしそれ以外の意味合いがあるのであれば、その意味合いは積極的に評価して、少なくとも代替となる行為を用意しなければならないと思います。その「それ以外の意味合い」を一言で言い表す言葉として私が考えたのは「相手との人間関係の整理」でした。
それは「哀悼の念を持つ」「故人を想い、故人の気持ちを忖度する」ということを含んでいると理解していただいて良いと思います。「自分の心(だけ)を整理する」のではなく、「相手との関係性においてしなければならないと思うことをする」という意味です。

例えば、先日のスティーブジョブスの死に際して、日本だけでなく、欧米でも、多くの人が花等をささげました。日本人はともかく、欧米の人たちはいわゆる「供物」としての意味を込める筈がありません。あくまで「哀悼の意を表し」「故人を想う」ものだった筈です。(「故人の気持ちを忖度」した時にジョブスがそれを望んでいたかは判りませんが……。)彼らは皆、自分とジョブスとの関係性の中で、自分がそのような行為をすることが必要だと判断したのでしょう。

変な言い方ですが、日本のキリスト教徒は自分たちの信仰を守ること、誤解されないように排除することに神経質すぎるのではないかと思います。