ジョブス死去

とうとうこの日がきた。
「終わりの始まり」だという悲観的な意見は、既にジョブスが10月のプレゼンをせずにCEOを辞任した時点から言われていた。

ところで、こんな動画を見た。Apple Futureshock
iPhon4Sに搭載されるsiriときわめてよく似たデバイスの登場するこの動画の設定が2011年の9月16日であり、siriの発表された10月5日と半月ほどしか違わないことが驚きとして受け取られている。しかしそれ以上に驚きなのは、iPhoneのイメージが、既に四半世紀前から揺るがずに存在していたことである。Apple社は実に24年もの間、ある一つのイメージを追求し続けたことになる。それは、「携帯でき操作が直観的な作業支援ツール」である。そもそも、AppleIIMacintoshがそうである。Newtonなど早すぎたipod以外の何物でもない。PowerBookDuoとMacBookAirが様々な機能を大胆に切り捨てているのも同じ思考だ。
さらに、Apple社は(一時期をのぞいて)頑に、OSだけを販売することを拒否してきた。彼らが作っているのは、ハードとソフトではなく、一つの完結した道具であり、使用者は中身の仕組みを気にせずに直観的に使うことができなければならなかったからである。
そんなAppleの哲学もジョブスの死去によって忘れられ風化していくだろうというのが、冒頭に述べた「終わりの始まり」をいう人々の根拠だろう。けれども、私が件の動画で驚いたのは、それが、まさ1987年という年に作られていることである。つまり、ジョブスが居ないアップル社がこの動画を作っているという事実である。ジョブスは1985年から1997年までアップル社を追放されている。件の動画も、Newtonも、PowerBookDuoも、ジョブスが作ったものではない。
ジョブスが居なくても、Apple社は自分たちが何を作るべきかをよく知っているのだ。もちろん一企業としてのApple社は永遠に続くとは思わない。けれども、ジョブスが死んでも仮にアップル社が死んでも、アップル社とジョブスが目指したものは死なない。