弔う事について

先日、キリスト教と葬儀についての講演会があった。ぜひ聴きたかったのだけれど、残念ながら都合で出席できなかった。本当に残念。
というのも、このところ、やはりキリスト教の問題は葬儀、その根底にある死生観が日本の感覚と決定的に相容れない事にあるように思うようになったからだ。

簡単に言うとキリスト教、特にプロテスタントキリスト教は、救いはその人が生きている間にキリストを受け入れるかどうかにかかっていると考える。従って、他の人が救われる為に本質的な何かをすることは(キリスト以外の)人間には不可能であるし、ましてや「生きている間に」であるから、死んでしまった後に周りの人が何かしてあげる事は不可能であると考える。
たぶんこの時点でもう普通の日本の人は「なにそれ」と思うだろう。
これは良く言えば、生きている間に信仰を持てば死んでからお布施だのお供えだの強制される事は無い。と言う事であり、死んだ後は、全部神様にお任せできるから何も間違いはない。と言う事だ。
従って、キリスト教の葬儀は、死んだ人の成仏(?)を祈る儀式ではない。むしろ、生きて残った人を慰める行為であり、もっと本質的には、生死を支配する神を礼拝する機会である。つまり、出席する人とより亡くなった人に近い誰かとの関係、出席する人それぞれと神様との関係が問われているのである。


しかし、日本人にとって最も重いのは、出席する人と亡くなったその当人との関係である。近親の者はもちろん、それほど近くなくても故人と直接関係を持っていた者たちは、故人が最期の通過儀礼を見守り支える為に出席する。その後の幾つかの行事も含めてそれらに参加することで、故人と自身の関係に最終的に片を付けていく。生きている間には色々あったとしても、死んだ相手に対しては一定の責任を果たす事でその人間関係を完結していく事が葬儀の目的である。
以前、震災の跡地で手を合わせる事について書いた。街角ですれ違う程度の相手、それまでの人生ですれ違う事はなかったけれども、その人がそこで息絶えた事を知っている程度の相手に対しても、「手を合わせる」と言う最低限の挨拶をすることで、相手との人間関係を整理しておく。日本人の対人関係を一つ一つ片を付けていく死生観と、キリスト教の神と向き合う葬儀形式はひたすら相容れない。そして、事が人生の最後に誰もが必ず迎えなければならない葬儀であるだけに、相容れないやり方で忍耐する事は出来ないのである。


キリスト教国であっても、特に近親者が亡くなった故人との個人的な人間関係を精神的に整理していく事は必要な筈であり、特に突発的な不条理な死を周辺の人々が受容していくためのプロセスは存在していると思うのだけれども、あまりそんな事を調べたり尋ねたりする機会がないので疑問に思ったままである。その辺りをきちんと回収できなければ、日本にキリスト教は受容されないと思う。


てな話をどう思うか聞こうと思ったのだけど残念だな。