雑草のこと

庭に思いもしなかった「雑草」が生えてきて、しかもそれが美的にもバランス的にも統一感から言っても、庭全体に害こそあれ利がないと思われる時、しかしその雑草がなぜ生えてきたのかわからず、もしかすると誰かが植えたのかもしれない、役に立つかもしれない、その雑草を中心に思っても見ない統一感が生じるかもしれない、と思って、抜かないでおいたならば、あっという間に庭は薮になってしまう。「薮のような庭」というのもないわけではないだろうけれど、とりあえずそれは違うのではないかと思う。
雑草(というか意図しておらず周囲に害をなす植物)は抜かなければならない。けれども、それを「抜く」ことで「雑草以外の庭全体の価値を高める」という判断は留保しなければならない。なぜならその雑草が庭全体の中で「負の意味」しかもっていないと決定することは出来ないからだ。
少なくとも現時点で、私は「その雑草」が「負の意味」しか持たないと判断する。しかし、その判断が絶対的であり、雑草を排除することが全体にとって本質的永遠的に「価値を高める」事になるかどうかは定かではない。排除してしまったならば、それを取り返すことは出来ないが、排除せずに放置することは出来ない。
そこで、「(雑草自身の存在価値の有無、正負に関わらず、)排除するという行為そのものが「庭全体」にとって価値を持つ」と考える。そして、雑草そのものの価値の正負についての判断は留保しているのだから、「(「雑草を抜くという行為」の持つ正の)価値」は「雑草を除く庭全体」ではなく「雑草を含む庭全体」にとっての「正の価値」でなければならない。つまり、雑草自身が、「抜かれる」という行為によって利益を得る筈なのである。
「雑草を抜いて庭が善くなった」のではなく、「雑草を抜くことが、雑草にとっても庭にとっても善いことだった」と言えなければ、雑草を抜くことは出来ない。


余計な謎解き
えーっと、「庭」=教会、「雑草」=ある信徒、「抜く」=戒規する、ってことです。