草抜きをしながら考えた

夏になるとウチの前の用水に雑草が生える。コンクリで囲まれた用水なのだが、放っておくとあっという間に腰丈程になり、始末に負えない。先週ようやく重い腰を上げて草を抜いたのだが、暑い日ざしの中で泥水と格闘していると色々と妄想が働く。そんな一つ。

「わたし」は庭の管理を任されている。庭の持ち主の顔は知らない。どんな庭にするのかもよく判らない。言い渡されているのは「美しく管理せよ」と言うことだけ。色々な草木が生えている。自分の好む苗木や種を植えることはほとんど許されていない。あくまで今ある植物を管理するだけ。ところが、どうも主人が時々戻って来て植えるのか、他に苗木係がいるのか、見たことのない植物が生えてくることがある。しかもそれがどんな植物だかわからない。もしかしたら単なる雑草かもしれない。それともその苗を育てたら庭の中で良い雰囲気を創るのかもしれない。だいたい「美しく」と言われても、それが西洋風の庭なのか日本風なのか、イングリッシュガーデンなのか、苔庭なのか、それこそ枯山水ならばほとんどの気を引っこ抜かなければならない。自分としては生えている木を見回して、こんなふうにしたら良いかなと思って草を抜いたり剪定したりするのだけれど、時々突拍子もない苗が植わってたり、思ってもない枝が生えたり、時には生えている木が思っていたのと全く違う種類であることを知って驚いたりする。一番やりやすいのは、自分が気に入る木以外を全部除いて、残った木だけで庭を構成することだろう。けれどもそれでは木が少なすぎるのではないか。生えてくる木を生えたままにし、少しは枝を剪定し、必要と思われる肥料や水を予想して与え、実が生ればよし、生らなければまたそれもよしとしよう。こちらのもつ美の完成予想図ではなく、出来た庭を美とするのだ。

というわけで教会の話でした。
わたしと言う苗はこの庭の美にどう関わっているのだろうか。