慇懃無礼

一週間ばかり前の地元の新聞「四国新聞」の話、震災後の日本のあり方について語る「日本を創る−震災と文明」と言う連載で、中沢新一氏が「科学と宗教」と言う題で文章を寄せているのを読みました。たぶんこの手の記事はそれぞれの地方紙に時間差で掲載されるので、他の地域でも見た人が居るかもしれません。
中沢氏と言えば宗教学者であると思っていたのですが、今回の文章の肩書きは「人類学者」であり、それも丁寧に大きく二カ所に掲げられていました。改めてちょっと検索したところ、最近彼はそちらの肩書きで活動されているらしい。それはまあ別にどうでもよいことですが。わたしは正直彼についてあまり深く知りません。威張ることではないのですが著書を読んだ記憶がありません。名前と20年くらい前にちょっと名前を取りざたされたことを知っている程度です。今回の寄稿について、ネット上で確認できませんでしたので、乱暴にまとめますと、「原子力発電と言うのは人間に制御できない「むき出しの」「過激」なエネルギーであった、人間はそれを制御することができないのだから、やめるべきだ」といったものでした。結論としては、エネルギー政策を地方に分権し、いわゆる再生可能エネルギーに取り組むべきで、自分はそのために研究所を開くという決意が語られておりました。


その要旨については、正直どちらでも良いことです。原子力が制御できないエネルギーであることは自明のことですし。政策の方向性として、地方分権エコロジーと言うのも選択肢として有力な物でしょう。わたしがちょっと気に入らなかったのは、その文章の中で彼が一神教多神教について取り上げている部分でした。当然これもネット上にはないと思いますので、その部分だけ打ち出してみます。

原子力の裏には「一神教」の思想がある。ユダヤ教キリスト教の神は「破壊」をする。生態圏を破壊する程の威力を持つ神です。一神教は「過激」な神を人間世界に取り込んだ。一神教的な発想で設計された近代文明は過激さの魅力に取りつかれたのです。
一神教以前のアニミズム(自然崇拝)や多神教には神の危険さを包み込むインターフェースがあった。犬の顔をしたエジプトの神や日本の八百万の神がそうです。それが生態圏に最もふさわしい宗教形態だと思います。
日本は鎖国等でキリスト教を避けてきた。日本はアニミズムと仏教が融合した多神教の文明。むき出しの神に似る原発は日本には合わない。世界に先駆けて脱原発をすべきです。その思想は、世界でも普遍性を持つと思います。

一言で言えば、「なんだこれ?」。何の根拠があるのでしょうか、原発廃止論の中でなぜ一神教批判を語らなければならないのでしょうか。一応一神教を信仰する立場の者として蟷螂の斧をもって挑みたいと思います。


まず、ユダヤ教キリスト教の神は『破壊』をする。生態圏を破壊する程の威力を持つ神です」と言う部分。
もちろん、聖書の神は、例えばノアの洪水であったり、ソドムとゴモラであったり、それこそ最後の審判であったり、破滅的な自体を引き起こした(引き起こす予定である)ことが記されています。上記三つの「破壊」では、それぞれ破滅から救い出される人が居り、ソドムとゴモラの場合は(実際には条件を満たせませんでしたが、)破滅回避の約束までなされています。救い出された人の視点で言えば、それは破滅ではなく、救済の出来事です。破壊をもたらす神が同時に救済をもたらす、命を与える神であると言う天を見なくてはなりません。そもそも聖書の神は「天地創造」の神、人間に命を与える神だからこそ成り立つ事柄です。
中沢氏の言い分は、例えば「福の神」を捕まえて「お前がいるうちはいいかもしれないが、お前がいなくなったら誰でも貧乏になってしまう。お前は人を貧乏にするから近づくな」と恫喝するようなものです。一体その「福」は誰から与えられたのか、「福が無くなる」ことを恐れるよりも、それをいただくことを感謝し、失わないように心がけることの方が正しい姿勢でしょう。「ユダヤ教キリスト教の神は『破壊』をする」と言うのは、「福の神は福を奪う」と言うのと同じ全く的外れな批判です。


次に「一神教的な発想で設計された近代文明は過激さの魅力に取りつかれた」と言う部分。
上記の「生態圏を破壊する程の威力を持つ神」と言う部分もそうですが、神が人間の持つ力を遥かに越えた力を持つことはむしろ当然のことでしょう。人間以下の力しかもたない神であればそれは信仰の対象たりえません。これも身近な例で言えば、映画「もののけ姫」の冒頭に登場する「祟り神」クライマックスに登場する荒れ狂う「シシ神」彼らは「生態圏を破壊する程の威力を持つ神」ではないのでしょうか?(もちろん、祟り神が破壊しようとするのはせいぜいアシタカの住む村程度ですし、シシ神の破壊のあとには再生が示されていますが……)むしろ、「生態圏を破壊する程の威力」を目の前にすることによって、私たちは私たち自身の力がどんなに限られたものであるかを改めて自覚するのですし、その前で謙虚さを身につけるのです。一神教の神が威力を持つ神であるから、一神教を信仰する人は「威力」の過激さに取りつかれて振り回されている等と言うのは、これもまた的外れな批判です。それならば、キリスト教が少数である中国やインドは原子力開発をしていないのでしょうか。そもそも宗教自体を否定する筈の共産主義の国家はどうだったでしょうか。一神教信仰と原子力開発は何の因果もありません。


そして一神教以前のアニミズム(自然崇拝)や多神教には神の危険さを包み込むインターフェースがあった」と言う部分。
別のところで「自然界でエネルギーが起きるときは必ずインターフェース(媒介するもの)をつくる」とし、太陽のエネルギーが植物や動物の介在を経て石炭や石油と言うエネルギーになっていること、「原発は燃料に湯を入れるという、むき出しの技術です」とその危険性を批判します。
その流れで、「神の危険さを包み込むインターフェース」と言うのが具体的に何のことなのか、わたしにはよく判りません。まさか神が「犬の顔をし」ていることが「媒介」であるというのではないでしょう。わたしが想像できるのは、多神教では絶対神、世界全てに力を及ぼす神が存在しないので、多神教では「生態圏全体を破壊する程の威力」が機能せず、必然的にそれを希求する欲求も起こらないといった事だろうと思います。(けれども、この想像は一神教を「むき出しの神」と呼ぶ氏の批判とはズレています)
上記の「もののけ姫」を見ても、多神教の中に破壊する力が存在することは確かです。先ほど聖書の中の破壊としてのあの洪水を挙げ、最後の審判を挙げましたが、多神教の中に『ギルガメッシュ叙事詩』の「ウトナピシュティム物語」があり、ゾロアスター教に終末思想があることを中沢氏が知らない筈はないでしょう。わたしは浅学にして知らないけれど、ソドムとゴモラに似た話もあることでしょう。むしろ、その類似性を述べ一神教の独自性を批判するのが世の宗教学者の常であったのですが、氏は宗教学者の肩書きを外したから知りませんというのでしょうか。
むしろ、全体を包括する意志が存在しない多神教の世界観では、破局は神々ですら停めることができない物になってしまいます。それこそ絶望的な事態で、とても「生態圏にふさわしい宗教形態だと思います」とは言えません。


最後に「日本はアニミズムと仏教が融合した多神教の文明。むき出しの神に似る原発は日本には合わない。世界に先駆けて脱原発をすべきです」と言う部分。だったら、一神教社会で生きてきた欧米やイスラム世界は、原子力と「合う」のか、それこそそもそも一神教を産み出したイスラエル民族は原子力を独占できるのか。多神教の文明に合う「脱原発多神教社会ではない他の地域でどうして「世界でも普遍性を持つ」と言えるのか。原子力開発の是非を一神教批判と結びつけて展開したために、最後の結論が整合性をもてなくなっています。原子力開発に対する批判は判ります。それは、宗教観と結びつけずに展開すべきだったのではないでしょうか。


氏は、結論として、発電の地方分権を提示し、以下のように言います。

最もいいのは地方自治体が発電を担うことです。第一歩は太陽光エネルギーでしょう。小さな自治体が自前でエネルギーと大地と海を管理し、生産と消費をコントロールする。それは昔の日本人の生き方を再創造することです。

上記の「インターフェース」についてのわたしの想像(威力の分散による危険の分散化)は、この文章に引かれたところがあります。しかしこの場合も、いくら地方に発電の権限を委譲しても、中央で例えば「原子力は止めて再生可能エネルギーにしてね」といった「制御」をしなければなりません。そうでなければある地方自治体が「ウチは独自で原発を開発します」と言い出した時、それを止める手段がないのです。

原子力発電が最終的には人間に制御不可能であり、その影響が極めて深刻であることは今回の事故で確かな共通認識になったと思います。選択肢の一つとして、他の発電方法を模索することは有益なことです。その意味では氏の文章は善い提言の一つであると思います。
けれども、それを根拠なく、専門ではない、いいかげんな宗教知識と結びつけたのは残念なことです。