楽園と秩序

まずアンパンマンに触れる。
アンパンマンは巨大な楽園である。
アンパンマンのキャラクター、そのコンセプト自体について文句を言う訳ではない。作者のやなせたかしは同じ四国の高知県出身であるし、聖公会の会員だという事だから、クリスチャン同士の同族意識もある。アンパンマンの重要なコンセプト「空腹を救う事こそ正義」というのは狭い意味でキリスト教から言うと異論があるかもしれないけれど、「正義を行うには自身の身を削る犠牲が必要である」というのは、まさにキリストの精神につながるコンセプトであるというのが衆目の一致するところであろう。
おそらく彼は気前が良いのだろう。頼まれればどんどんとキャラクターを作る。特に幼児のキャラクターグッズによく用いられている。もちろんウチの子ども達も幾つかアンパンマンのおもちゃを持っている。その中に、いわゆる「黒ひげ危機一髪」風のおもちゃがある。バイキンマンの基地の天辺にバイキンマンの人形がはまっていて、アンパンマンを周囲の穴に刺すと飛び出すという、話としてはそのまんまのおもちゃだ。そう思って見回してみると、おもちゃ屋の一部にアンパンマンのコーナーがあって、そこにはありとあらゆるおもちゃが揃っている。おもちゃに限らず、たいていの子どもの物がアンパンマンで揃ってしまう。作る方としては、一目で「やなせ風」と判るキャラクターだし、毒がないキャラクターだから親は買い与えるのに抵抗が少ない。キ○ィやミッ○ーのように版権が一社独占ではないことも理由かもしれない。おもちゃ業界に取ってアンパンマンというキャラクターの存在は巨大な楽園になっているのである。
しかし、そこに懸念を覚えるのだ。おもちゃを作る人たちは、アンパンマンを使えば安心な訳だから、アンパンマンに頼る。それならそれで、アンパンマンのキャラクターを生かした新しいおもちゃを作れば良いのだろうが、そうでもない。それまであったおもちゃをアンパンマンに置き換えれば、新しい確実な需要を見込めるのならば、海の物とも山の物とも判らない新しいおもちゃ、新しいデザインに挑戦するよりも安全なのは言うまでもない。しかしそれはおもちゃ業界に取って良い事ではないのではないか。巨大な楽園の存在は人を抑圧するのである。


次にグーグルが登場する。
グーグルは巨大な秩序である。
googleは、「人類が使う全ての情報を集め整理すると言う壮大な目的」を持って設立され企業活動をしているのだそうだ。それまで、一部の人に占有されていたあらゆる情報を、全ての人が自由に用いることができる事を目指しているわけで、必然的に既得権を持つ権威者とは対立する事になる訳で、その意味では、よくわからないけれどリバタリアンアナキストと言われる存在なのだろうと思う。
その思想を含め、グーグルは多くの人に受入れられ、それ以前の権威であるYahoo!等を駆逐する事になった。単に検索エンジンではなく、画像や地図、映像や音楽、宇宙にまでその手を広げている。その結果どうなったか、インターネット上の全ての情報がグーグルの手の中に収められる事になった。その結果、企業は、自分たちの会社がいかにグーグルの検索の上位に掲載されるか手を替え品を替える事になる。グーグルは企業自体やその商品の善し悪しを判断する訳ではないから、企業は、本来すべき企業努力とは別の努力をすることになる。グーグルの検索に引っかからないという事は、少なくともネット上においては、存在しない事と同義である。「グーグル八分」なる言葉があったりするが、グーグルは単なる検索エンジン、つまり、リアルな社会で言うなら、電話帳とか住所録程度の存在であり、電話帳に載っていなくても、その存在そのものが消滅する訳ではない筈なのだが、ネット上では、つながっている事自体がその存在の地盤である故に、グーグルは既にインターネット上の存在を支える大地そのものになってしまってる。
リアルな世界の秩序やネット上の先行する秩序が権威を振るっている間は、リバタリアンアナキストも存在しうるのであるが、彼ら自身が秩序になった時に彼らがリバタリアンである事アナキストである事は自己否定であり、彼らはその座についた時、その秩序の故に必然的に権威主義にならざるを得ない。


最後にウルトラマンシリーズが出てくる
ウルトラマンははかない平和である
ウルトラマンは最初のシリーズから四十年以上立つにも関わらず未だにシリーズが継続しており、しかも古い登場人物達も未だに子ども達に受入れられている、それはヒーローだけに限らず、本来敵役として消費されていく筈の怪獣や星人達にも及ぶと言う、日本が誇る文化なのだろう。最近また映画が公開され、あのウルトラセブンが既婚者でありやんちゃな息子までいる事が明らかになった。
少なくとも初期のウルトラマンにおいて、時に怪獣は必ずしも悪ではなく、裏返しにウルトラマンは必ずしも絶対正義とは言えないことがあった。その典型はウルトラマンに登場したジャミラであり、セブンに登場するノンマルトである。しかし、ウルトラマンエースになって、状況は変化する。怪獣達の背後にあって地球を侵略する意志を持つ存在、異次元人ヤプールが登場する。彼らによって地球に送られる超獣は、必然的に悪である。対してウルトラマンエースは絶対的な正義となる。タロウになると、名前だけではあるがエンペラ星人が登場し、やがてヤプールテンペラー星人ババルウ星人メフィラス星人等も組み込まれて軍団が形成されていく(のだそうだ、このへんはよく知らん)。映画やゲーム等では帝王ジュダだのレイブラット星人だのいわゆる「黒幕」的な存在が幾人か現れてくることになるが、上記の結果、ウルトラマンの基本的なシチュエーションは、ウルトラマン一族とエンペラ星人の軍団の長きにわたる戦いの歴史という事になる。
そうなると、「人間に害をなす侵略者や巨大生物から地球(と人類)を守る正義の味方」と言うウルトラマンの当初のコンセプトは微妙にずれてくる。もしかすると、一連のウルトラマンの活動は、単にウルトラの星とエンペラ星の勢力争いの一環で、ウルトラマンが地球にやってくる侵略者と戦うのは人間を守るためではなく、制空権ならぬ地球における「制星権」を維持する事が目的なのではないかと思わされてしまう。確かに、今の私たちにとっては、ウルトラマンの守る秩序の方が侵略者に侵略される事よりも自分たちの権利を守る物であるように感じられるかもしれない。しかし、エンペラ星人に侵略されたらされたでそれはそれなりに平和に暮らせるかもしれない。少なくとも侵略した星を端から破壊してそこに生存している生命をことごとく滅ぼしてしまうというのではなければ、それはそれなりに平和な秩序だったりするだろう。もし、侵略者が少なくとも自分たち自身(と自分たちに従属する者たち)の秩序と安定さえ維持する意志がないのであれば、その組織は必然的に破綻せざるをえない。それが恐怖による秩序であったとしても、また多大な破壊の上になりたつ安定であったとしても、しかしなおそれは秩序であり安定でありそこにはそれなりの平安がある筈なのだ。
その辺の秩序と混沌の関係の話は、以前にも書いた事があるから繰り返さない(2009-02-18 - 暴風日記)。話を元に戻すが、最初期のウルトラマンは局地的な戦いだけを扱っていればよかったので、一つ一つの戦闘において対面する相手との関係に思いを向けていればよかった。もちろんそこで敵には敵の正義がある事に思いを馳せる事も出来たが、敵の正当性に思いを向けていたら自分の命が危ういのだから、目をつぶって引き金を引くしかなかった。やがて自分たちに仲間がいる事が明らかになってくると、自分達の世界秩序が明らかになってくる、しかしそれは必然的に敵にも仲間があり世界秩序がある事を明らかにするのであって、結局自分の戦闘の正当性を支える秩序は相対的な物でしかない事を暴露してしまう。戦いは異なる秩序同士の衝突でしかない。そこで保たれている平和がはかないものであることを平和の中にある人は自覚しなければならないだろう。