一度書いたのを消しちゃってもう一度書き直したからテンションがた落ち

例によってと言うか、終風爺のブログでネタ拾い。数日前にこんな一言が書かれていた。
私心なき純真な思いは必ず人に通じる、と、いうのは、天皇制の心理。
ネタ元の鳩山さんの話には全く関係なく、何か得心してしまったのでその事を書く。


私は事実としても自己認識においてもまぎれも無い日本人であるのだけれども、キリスト教の環境の中で生まれ育ってきた事もあって、やっぱり周りの人とは違うなぁと思う事がある。その一つがこれ。
キリスト教では「信仰を告白する」と言う事が大切な事とされる。そもそもキリスト教徒になるためには、自分の信仰を告白しなければならない。自分が何を信じているか、今後何に従って生きるかその事を言葉として自分の口で表明する事が求められる。また、それ以降も「証しをする」と言う事が度々求められる。これは教派によって多少意味するところが違うのだけれども、例えば、みんなの前で自分の信仰の経験なんかを喋らされる事であったり、普段の生活の中で言葉であれ生活態度であれ信仰の素晴らしさを表明する事であったりする。言葉を用いない場合もあるけれども、自分が信仰を持って生きていると言う事、更にはそれが良い事であると言う事を言語化することが度々求められる訳だ。
ところが、「天皇制の心理」つまり、一般的な日本人の持っている心理においてはむしろ「思い」が「通じる」ものとされる。つまり、言語化されない意識こそ伝わるもの、伝えられるべきものであると理解される。そうなると、言葉をもって意志を伝えようとする行為は、余分な事であったり、余計な事であったりすることになる。つまり、「空気を読む」べきであって、いちいち口にするのは莫迦であり、口にされた事を額面通り受け取るのは愚かなことなのである。
もちろん、キリスト教徒だからといって空気を読まない訳ではない。TPOを考えて言葉を発するし、相手の受け取り方をおもんぱかって話すのは当然の事である。けれども、こと信仰に関する事は「言葉にしなくても通じる筈だ」とは決して考えないし、それは必然的に、信仰のこと以外の日常生活の中でも「自分の意志は言葉に出さなくては伝わらない」「言葉に出した意志こそが伝わる」ということになってくるわけだ。
「わたしはAである」と表明することは、必然的に「わたしはA以外の者ではない」と言うことであったり、少なくとも「わたしはAであることを最優先する」と言う意味である。それを何となく思いとして持っているのと、一度でも言葉として口にするのとでは、ずいぶんとそのことに対する意識が違ってくる。自分自身の中でも、「Aであるけれども、Bも捨てがたい」とか「Aであるとはいっても実はBである」と言うことは言語化することでどんどんと小さくなるのである。
もちろんいくらキリスト教徒であると言っても、それ以前に私(たち)も日本人であるのだから、理屈で言う程徹底している訳ではない。思っていることをなかなか口にしない人は沢山居るし、「察してチャン」だったり、後からグチグチと愚痴をこぼす人も沢山居る。日本でキリスト教徒が増えない理由、特に家族の中で一人だけキリスト教徒と言う人が多い理由の一つも、自分の信仰を表明することが苦手であるからだと言われる。そうすると周囲の「非キリスト教徒」たちは、その人が当然日本的な宗教慣習を持っているないしは、それに同調してくれる者であると思い込んで、確かめようともしないのである。葬式に行ってその場で立ち往生してしまう話は枚挙にいとまが無い。もっと言葉にしなければならないのだろう。
なんだか落ちが無くなったのでおしまい。