聖書って何さ(その2)

聖書って何さ(その1)を読むと、以下の話が何のために書かれているのか少しは分かると思います。


これは、私の話
いつも私のところの教会では、クリスマスイブの夜に賛美礼拝ってのをしています。例年クリスマスの讃美歌を何曲か歌い、その間に聖書を朗読するというスタイルをとっているのですが、今年はちょっと趣向を変えようではないかという話になりました。といってもそんなに大して変える訳ではないのですが、ただ聖書を読むのではなく、ちょうどアメリカの教会のクリスマス礼拝の式文の翻訳されたものがあったので、それを使って礼拝してみようと言うことになったわけです。
で、その式文を見ていたのですが、文章が書いてあって、カッコして聖書箇所が記されているのですが、その箇所と見比べるとずいぶんと文章が違う訳です。要は、その式文用に文章を変えているんですね。その式文はもちろん英語からの翻訳だから、聖書の文章は重訳ですし、そもそも英語の式文自体が聖書の言葉そのままではなくパラフレーズしているのは当然なのですが、しかし自分としてはそれが座りが悪くて、どうにも気持ちが悪くて、結局新共同訳聖書そのままの文章に変えた訳です。
そこには多分、「自分たちの教会で公式に使っている新共同訳聖書の文章こそが礼拝の中で聖書の言葉として読まれるべきである」という意識が強く働いているのだろう。聖書の文章なんて意味が一緒ならばどの訳でもいい筈なのだけれども、あくまでも気持ちの問題。でもそれは、いわば信仰の問題ってことになっちゃうんだよな。