聖書って何さ(その1)

ちょっとここ数ヶ月で経験したことをいくつか書こうと思う。その前にちょっと前提となる話を。


キリスト教という宗教はBookishな宗教であると言われることがある。他の宗教が宗教行為や儀式が信仰の本質を占めているのと同じくらい、もしかするとそれ以上に、聖書すなわち、「神の意思の表明」が信仰者の在り方に意味を持つ。つまり、聖書は単なる文書ではなく、ある宗教的な意味合いを持つのである。近現代になってその聖書の持つ宗教的な力は、それを受け取る読者自身の信仰にその根拠があるという理解が一般的になってきたけれども、私らの教派は自他共に認める(?)保守ガチガチ教派なので、相変わらず「神の言葉の説教は神の言葉である(©第二スイス信条)」とか言ってる訳ですよ。
これが極端に進むと、読んでる人の状況とか、読まれている文書そのものの文脈とかを無視して、その言葉自体が「神的力」を持つと信じるようになる、いわゆる「文字信仰」になる。イスラムは多少その気があって、私が覚えているのは、日本のタイヤメーカーが作ったタイヤの模様が、偶然アラビア文字で神名を書いているのとよく似ていたため、神名をタイヤで踏ませるつもりかと問題になったなどという話がある。
もちろん、そこまで言うつもりはないけれど、しかし自分にとっても、聖書の言葉はやはりある特殊な役割を果たすものであると考える訳です。世のキリスト教徒を分類する一つの基準として、この聖書の「言葉」をどう扱うかが物差しになるのだろうと思う。
で、ネタとして、自分がどれくらい聖書の「言葉」に拘っているか、書き留めてみたいと思う。