弔辞

赤塚不二夫の告別式のニュースを見た。タモリが弔辞を読んでいた。タモリと赤塚不二雄の関係は以前から知っていたので、彼がこの件についてどうコメントをするか聴きたかった。
とても良い弔辞だった。最近人の死にすぐ涙してしまうようになったが、ワイドショーやニュースでタモリの弔辞を聴くたびに、ウルッと来て声が詰まってしまう。決して感謝の言葉を言わなかった二人の関係がどれ程深いものであったか。その相手に感謝の言葉を言う機会は弔辞の機会しかないだろう。「私はあなたの数多い作品の一つです」と言うのは名言だ。タモリ赤塚不二夫の関係を知っていれば、まさにその言葉の通りであると思えるだろう。しかしそう言えるタモリの思いはいかばかりか想像するにあまりある。自分はそれほどの相手に巡り合っただろうか。これから巡り合うことができるだろうか。たぶん出来ないのではないか。
笑っていいともに出るために告別式を途中で抜けたところも素晴らしい。12時に見るタモリの顔はいつもの顔だった。そうであることを故人も望んでいた筈だ。


キリスト教には、原則として弔辞という習慣が無い。葬儀において個人について語ることができるのは説教する牧師だけである。そして、往々にしてその場において個人との関係が最も薄い人の一人が牧師であったりする。全ての弔辞がよいわけではないだろうが、弔辞もいいかなと思ったりした。