弔辞のこと

キリスト教には、原則として弔辞という習慣が無い」と書いたのは、ちょっと断定しすぎだったかなと思う。「日本のプロテスタント教会の多くは、いわゆる弔辞という形式のスピーチを避ける傾向がある教会が多い」くらいに訂正。
と言うのも、カトリック教会の葬儀には出たことが無いし、おそらく彼らの死生観や宗教観から言って、日本的な弔辞に抵抗が無いだろうと想像できる。海外での葬儀は更に経験が無い。想像も出来ない。映画などでいわゆる弔辞をしている場面を見たかどうか。見たことはなかったんじゃないかと思うけれど自信がない。もしかしたらあるかもしれないし、あっても彼らはあまり抵抗が無いだろうと想像できる。
つまり、日本のプロテスタント教会の信者だけが、弔辞、つまり、葬儀の場でその葬儀で弔われている個人に語ると言うスピーチに対して警戒感を持っていると言うことになる。
どうして警戒する必要があるのか、それは(プロテスタントの理解する)聖書では、死んだ人の魂は、ただちに死んだ人が行くべきところ(「陰府」とか「父の懐」とかちょっと誤解しやすい表現ですが「天国」などと言われます)に行くのであって、葬儀の場所にはその人の本質はいないからです。(物質的な肉体も人間の本質だというのも聖書の教えるところですが、意識は霊に属するのでしょう)
その人の魂が死後もその周辺にいるという認識は、容易に魂を天国に送るための「供養」と言う行為に結びつきます。死者の救いのために祈ることは出来ないし為てはならないと言うのがプロテスタント教会の大事な神学的アイデンティティです。
また、死者のために祈る行為は容易に死者に対して祈る行為へと変容します。死者だろうと何だろうと、唯一神以外のものを拝んだり礼拝したり、それらに祈ったりすることはキリスト教が最大の禁忌とするところです。先祖崇拝に対する潜在的な欲求が強い日本では、死者に語りかけることは十分注意して避けなければならない行為ということになるわけです。