コウノトリのユリカゴとか、親学がどーのとか、ジェットコースターの事故とか、放置された子どもとか、そんなニュースを見てて思ったことを書きます。(その2)

以前も書いたけれども、キリスト教では、人間が死ぬということは、人間の持っている本質的な要素ではない。本来人間は生きるべきものであり、死ぬことは異常な事、あり得べからざる事であると考える。
ましてや、多くの者に愛されている人、死ぬことを予想しづらい若い人が突然その生命を終えることは、その人を愛している全ての人々に大きな傷を残す事になる。私自身はその傷のことを思うと、これらのニュースをあまり冷静に見ることが出来ない。個人的心情は置いておくとしても、人の生命はあらゆる手段をとっても守らなければならない価値であるということは、上記の「中絶」の是非を巡る論争においても、どちらの主張をする陣営においても揺るがしがたい前提であると思う。
どんなに過激な民族主義原理主義者であっても、損なって良いのは異民族や異教徒など、自分たちとは異なる者たちの生命であり、「自分たち」すなわち、同じ民族や同じ信条等共通項を持つ者の生命は、むしろ過剰なまで保護されなければならない。よくあるテロリストの自爆攻撃など、彼ら自身の生命が粗末に扱われているように見える時は、往々にして私達の感覚(地上における生命)とは別の生命に価値を見いだしているのであって、広い意味での生命そのものの価値を認めず、それを滅ぼすことを是とする信条はあり得ない。(あったとしたら即座に自滅する。)
閑話休題
そのように人間が死ぬことはあり得べからざる事であり、人間は常に生きる事を指向しているにも関わらず、人は必ず死ぬ。どんなに信仰をしてもそれは変わらない。どんなに若かろうが元気であろうが、その人が死ぬことのリスクはゼロではない。むしろ、長期的にはそのリスクは100パーセントである。つまり、誰もがいつかは必ず死ぬ。そして、残された人は喪失感を経験せざるを得ない。一般に死ぬことのリスクが低いと思われがちな若い人の、突然の死であれば、その喪失感は大きい。しかし、高齢者であっても喪失感が存在することは変わらない。
その喪失感の大きな部分を占めるものについて、何か名前があるのかもしれないけれど、自分は良く知らないし、何か適当な名前を上手く付けることが出来ないのだが、あえて言えば「相手に対する行為の不十分感」といったものではないかと思う(たぶん心理学か何かで既に名前がついて居るのだろうけど、知らないし、調べるのも面倒)。つまり、生きていればあれも出来たこれも出来た。とか、死ぬ前にあれもしてやればよかった、これもしてやればよかった。という感覚である。もちろん、ああしなければよかった。という逆の感覚もある。
この感覚に宗教は、解決の道を提供する。その前提となるのは、人間の生命というのは、肉体的な生命の終焉で終るわけではないと考えることである。最近の流行りであれば、「千の風になって」存在し続けるのだよ。というあれである。上記の宗教原理主義者たちの一見自滅的と思える行動も、地上の肉体的生命の終焉が私という存在の滅亡ではないと考えるところにある。人間が有機的機械で、死んでその機能が停止したら人間としての本質が完全に失われると考えると、次の解決策に進むことが出来ない。
そしてその前提に基づく解決策とは、死者に対して生者たちが「弔い」をすることで、死者を休らわせることができると教えることで、生者達の欠落感を慰める方法を提供することである。つまり、亡くなった人がいれば、丁重に葬儀をし、仏教であれば何回忌という行為を何回も行うことによって、生きていることにすることが出来なかったという感覚を補い、「悲しみ」を癒すのである。
ところが、最近の事故を見ていると、葬儀においても癒されていく様子が無い。死んでしまったことがいかに理不尽かつ不条理であっても、葬儀をし弔いを重ねることで、その理不尽さ不条理さを昇華していかなければならないのに、何年たっても事故のことをより鮮やかに思い出すように努めたり、ましてや「語り継ごう」とか言ったりする。亡くなった家族の部屋や持ち物をそのまま保存したりする。何が起こったのかハッキリさせようとか、責任をもってもらおう、償ってもらおうとか言う事は、せっかく出来たカサブタを剥がし、傷が治らないように新たな傷を作ることでしかない。
ちょっと話が変わるが、その点で、キリスト教の特にプロテスタントの葬儀は、ちょっと大事な要素が不足しているのではないか。と思う。カトリックは、「死者のための祈り」が存在するが、プロテスタントは、「死者を弔う」ということが存在しない。何故なら、死んだ人は、その瞬間に既に万事解決してしまっている、何の不足もなくなってしまっているのであって、生きている者たちが補ってやる必要はない。むしろ、生きている人達は、その人が死んだことで、全ての問題が解決すると理解することで慰めを得ることができると言うのである。
しかし、そんな信仰をもって居ても、やはり、「相手に対する行為の不十分感」はある。それを補うための方策は考えなければならないのじゃないかなと思う。
何だか尻切れトンボな結論だな。我ながら。