コウノトリのユリカゴとか、親学がどーのとか、ジェットコースターの事故とか、放置された子どもとか、そんなニュースを見てて思ったことを書きます。(その1)

キリスト教のうち、特にカトリック教会といわゆる福音派と呼ばれる保守的なプロテスタントは、中絶に対して厳しい態度を取ります。その姿勢は原理主義的だとか頑迷だとか言われるけれども、ハッキリしているのは、一つの生命の価値を他の何物にも換えがたいと極めて重く見積もっていること。それは、その生命が生命であると言う事自体で先験的に価値あるものと見なしているということである。
よく「生まれなかった方が良かった」と言う言い方があるけれども、全ての生命がそれが生命であるかぎり、生まれないよりも生まれる方が必ず良い。何故なら、それが生命であるかぎり、神の顧みの中にあり、神の計画を根拠とするその生命の「意味」を持っているからである。例えば、コウノトリのユリカゴを批判する人達の中で、「子どもは実の親に育てられて幸せなので、捨てられた子どもは不幸だ」という言い方があった(ソース無し)。また、例の愚劣な教育再生会議が「子守歌を聞かせ、母乳で育児」すべき、とか言っていた。しかし、親に捨てられようが、子守歌を一度も聴かせてもらっていなくても、それでもその赤ん坊が生まれて、生命を保ったほうが良いのであって、如何なる理由であろうとも、既に生命である「胎児」の生命を損なうような行為はされてはならないのである。ましてや既に生まれている赤ん坊の生命が損なわれるようなことがされようとするのであれば、母親から引き離そうが、家族から離れようが、その生命を守ることが優先されなくてはならない。生命はそこまで価値あるものなのである。
とまあ、これが中絶を反対する人の理屈である。
原理としてはそうだけれども、実際面では、考えなければならないことが多くある。子どもを中絶することを認めるべきだと主張する最も大きな理由は、母親の生命の保護である。その場合の生命の保護とは、単に生命を保つということだけでない意味を含み込む。人間は肉体的存在であると同時に、精神的・霊的・社会的存在である。母胎にとって、妊娠出産という作業は、自身の生命を保つためには非常に大きなリスクである。また出産前はもちろん出産後も長期間にわたって経済的肉体的社会活動的に大きなリスクを背負う。特に妊娠の経過が本人の意にそぐわない場合等、精神的に極めて大きな傷を負うこともある。ひとたび妊娠したからと言って、これらのリスクを母胎一人が強制的に負わされるのは理不尽であり、負担が大きすぎる。今日の社会において子どもを産むという行為が、せいぜい夫婦や祖父母くらいまでしか関わらない個人的作業となっていることが、このリスクを過剰に母胎に負わせる結果を産んでいるのではないかと思う。子どもは社会が受け止め、社会が育てるものとすべきであるし、そうであれば、母親が育てられない子どもを社会が受け止めることは至極真当なことではないかと思う。
その生命は、損なわれたら二度と取り戻すことの出来ない大切な生命なのである。