黙想

極東ブログでこのところ、キリスト教の黙想に関する書籍の書評が続いている。私は外国語は壊滅状態(日本語も怪しいけど)なので、どれも未読だし、恐らく今後も読めないだろうと思う。
カトリックには黙想の伝統があり、プロテスタントでもそれが見直されている。祈祷院を持つ教派も増えている。テゼについては極東ブログの一連の記事の中にもちょっと名前が出て来た。私の知り合いも訪問している。
もしかするとプロテスタントの牧師先生(の一部)で、黙想というと、加藤常昭の説教黙想を連想する方が多いかもしれない。あれはあれで素晴らしい試みだと思う。
黙想(というか祈り)について、私がここに書いたのはこの記事だった。改めて、どこかに退かなくても、改めて何か特別な歌を歌わなくても、改めて何かの儀式や様式を持ち出さなくても、むしろ、世俗の生活のそのただ中に「(神についての)黙想」が形づくられる筈だというのが、プロテスタンティズムなんじゃないかと思う次第。
もちろん修練として、また定期メンテナンスとか燃料補給として、退く場所や退くための型は必要なんだと思うけれど、そんな手間をかける程、みんな暇じゃないと思うんだけど。
誰か、そんな黙想の型を提供している(できれば日本語の)本を知らないかしら。