魂を弔うこと

これもまたちょっと不謹慎と受け取られるかもしれない。


このところネット上で何回か、雪が舞う被災地を(おそらく)経を上げながら歩いている若い僧侶の画像を目にした。一月前のエントリーで書いたように、私は、この事態の中で、宗教者がすべき事、宗教者だけが出来る事は弔う事であると思っている。まさに、この僧侶はそれを実践しておられる。
仙台の超教派のキリスト教の活動である「仙台キリスト教連合」では、仏教者との連絡協力も話し合っていると言う話を聞いた。キリスト教もその事の大切さを自覚し、取り組もうとしておられる。


ところで、件の写真を見て、改めて仏教者であれば、おそらくまず、誰も居ない遺体安置場所に赴いて、お一人お一人の為に読経をすると言う事をされるのではないかと思った。また、画像の僧侶がされているように町の中を歩いて、所々で読経する。特に人が亡くなったと思われるところで読経をすると言う事を思いつかれるだろう。
しかし、キリスト教の牧師がそれと同じ事はしないのではないか。しないと言うより出来ないのではないかと思った。というのは少なくともプロテスタントの信仰の中には「死者の魂の宗教的な平安のために祈る」と言う行為が存在しないからだ。しかも、それは意識的にカトリック教会がもっていた「死者のためのミサ」の習慣を破棄した事によるのであって、「死者のために祈らない」と言う習慣はプロテスタントキリスト教の宗教的な核心に属する事だと思う。
時々キリスト教式の葬儀に出席するが、そこで牧師が言うのは「亡くなった方の魂は既に天国にあり、私たちが『供養する』『成仏を祈る』必要は無い」と言う類いの言葉だ。キリスト教式の葬儀は、あくまで神様を礼拝する行為であり、また生きている人、遺された人を慰める場だ。だから、この場合も、誰かが亡くなっていて、周りにその家族が居るのであれば、その家族のために祈る事は出来る。また亡くなった人たちが居るその場で、神に(何か別の事を)祈る事は出来るかもしれない。しかし、無念にも亡くなった方のために何かをする事は出来ない。それはもう、神に委ねられた領域の事柄であり、人はそこに手を突っ込む事が出来ない。


しかし、少なくとも日本に生まれ育った私は、そのようなあり方に正直物足りなさを感じる。この一月感じ続けていた。そんな時に、知り合いの欧米系の宣教師に会う機会があった。そこで、上のような事を尋ねてみた。つまり「キリスト教が文化の根底を成す欧米において、ただ亡くなった方だけが居る場所や、亡くなった方の遺体さえない、しかし不幸な出来事が起こったであろう場所で、何か宗教的な祈りをささげる事が可能であろうか」「そもそも欧米のキリスト教徒はそのような祈りをささげたいと言う欲求があるのか」「あるとすればそれは死者のための祈りとどう違うのか」と言った問いだ。


彼の答えは、「自分は、例えば遺体安置場所で、その死者のために、祈りをささげる習慣が無い、そのような欲求も無い」「もちろん、その遺体は『かつてそこに魂が存在していたものとして』丁重に葬られなければならないので、自分もそうする」(「でもそれは『葬儀業者』が行う行為と違わないですよね?」と言う問いに)「その通りだ。ただし『この(亡くなった人の)魂を神様あなたに委ねます』と祈る事はするだろう」というものだった。


彼の答えはただ一つの例かもしれないけれど、予想していた答えのうちの一つだったので、たぶん大多数の考えを表すものだろう。そして、最後の「この魂をあなたに委ねます」と言う祈りは、私は知らなかったとは言わないけれど、思い出さなかった祈りだった。
日本の普通の人たちからすると、何か亡くなった方の事を放棄してしまっているかのようでかえって不快に感じるかもしれない。しかし、亡くなった方に対して最も重要な事、そして、遺されて悲しむ私たちに最も必要な事は、その思いもかけない死を迎えた多くの人を、一人一人神様に委ねる事だ。
こんな大きな悲しみを私たちに下した神様は、しかしそれでもなお、私たち一人一人を愛し、慰め、魂を拾い上げて下さるお方なのだ。