見た目が大事

最近聞いているラジオで、このところフリージャーナリストの人が記者クラブについて抗議し続けていた。で、先日鳩山首相の記者会見が記者クラブ以外のジャーナリストにも開放されたとの事で、喜んで話していた。記者会見の中でそのジャーナリストが、首相が記者会見を記者クラブ以外にもオープンにすると言う公約を実現してくれた事に感謝の時を述べたそうだ。彼いわく、この記者会見はNHKでも中継されたそうで、彼曰く、NHKが「記者クラブ」って言葉が流される事は(ほとんど?)初めての事で、この事で今まで記者クラブ問題を聞いた事が無かった人も、民主党が記者会見開放と言う公約を出していたにも関わらず、記者クラブがその事を全く報道していなかった事に気がつく筈だなんて事を言っていた。
でも、違う。ほとんどの人はそんな記者会見は見ていない。見ていてもその中で発言されているジャーナリストの発言の一つ一つに注意等払っていない。もし耳にしても、その背景に込められた発言者の意図やその背後にある問題に思いを巡らす事等無い。記者会見は昨日までの記者会見と全く変わる事なく続く。
何が言いたいかと言うと、あるプロジェクトに関わっている人が、そのプロジェクトに関してきわめて画期的な改革を実現したとしても、その事はそのプロジェクトの周辺にいるその他の人々にとっては全く変化を感じられない。それはいつもの風景でしかないと言う事。
この事は二つの教訓を生む。
一つは私たちの目の止まらないところで起こっている変化が、やがて私たちに実に大きな影響を及ぼす事があるということ。私たちは私たちの社会で起こっている小さな変化、何か意図を持って変化を起こしている人々のその意図を感知する必要があると言う事である。その変化が多くの人々に感じられるようになった時にはその影響は既に私たちにはどうしようもないところにまで進んでいて、それはもう元に戻すことができない。
もう一つは全く逆の事。私たちが何かを変えようと思った時、その変化は私たちが思っている程には回りに感じられていないと言う事を意識しなくてはいけない。じつは、最近、全く別に二つのイベントに関わっている。一方は十年に一度の記念イベント。もう一方は二年に一度の開催だけど、わたしのいるチームが関わるのは十年以上に一回しか無いと言うもの。どちらも、ちょっと力を入れて数年前から取り組んでいて、どちらのチームも、今までとはちょっと違ったもの、マンネリを脱した新しい企画を考えたつもりだ。でもたぶん、参加する多くの人たちは、前回とそんなに違っているとは思わないのだろうな。
何かを始めるなり、変えるなりして、そのことを出来るだけ多くの人に認識してほしいと思うのならば、実際にその変化で感じられる変化の感覚よりも、ずっと大きな変化の感覚を提供しなければ実際に変化していると感じてもらえない。実質そのものを変化させる事はもちろん本質として重要であるのだけれど、その「提供」の仕方を工夫しなければならない。

なんだかいつでもどこでも誰でも言っているような話になっちゃったなと言うのが今日の落ち。