永遠を思う

75年目の滴下実験 | スラド
上のショウジョウバエの実験について書いたブログについでに、石油ピッチの滴下実験についてリンクが貼ってあった。この実験については以前から知っていて語りたかったのだけれど、どこの大学だったのか判らなかったので書けなかった。ようやく書ける。
大学の名前は、オーストラリアのクインズランド大学。実験とはビーカーの上に漏斗を置き、そこに石油ピッチを入れて、滴下する様子を観察する実験である。ただし、石油ピッチは極めて粘性が高いため、1927年の実験開始以来75年、今まで滴下したのは僅か8滴である。
この実験に関連して、二つ程。
第一点「地道な実証作業は大事」
この石油ピッチの滴下実験は実にしょうもない実験だ。滴下の瞬間を観測しても、その自国をどれ程厳密に測定してもそれほど優位な発見は起こりえない。よく判らないけれど、この研究室はまさかこれだけを研究しているわけではないだろう。よく判らないけれど、粘度は判っているのだから、計算上はだいたいの滴下時間を計算することは可能だろう。しかし、それでもあえて、70年もかけて8滴落ちることを観測する必要がある。なぜなら、科学は最終的には実証だからである。
それまで全く見つかったことの無い新しい発見や、誰も成し遂げたことの無い新しい発明に取り組み研究することは、もちろん科学の最も大事な仕事の一つである。しかし、ほとんど当り前と思えることをもう一度確認すること、ほとんど新しい発見が無いと思われるような観察や観測を特に長期に渡って継続することは、後の科学にとって極めて大切な意味を持つ。
こちらもソースが無いのだが、確か東京大学の医学部だかが、ある島の住民を第二次大戦前からずっと継続して健康診断し続けているのだそうだ。長い歴史の中で、健康診断が行われなかったのはわずか二回。それは第二次大戦末期(1944年かな?)と1969年。つまり、大学紛争で東大が大もめだった時だけだそうだ。大学紛争の人たちからすれば、そんなつまらない健康診断なぞ全くバカらしいことにしか映らないだろう。しかしその結果、長い歴史の中で戦争と並ぶ愚かなデータ欠損を産むことになったわけだ。
例の「仕分け」にかかったら、恐らく石油ピッチの滴下実験なぞ最初に止めさせられてしまうに違いない。

第二点「永遠に思いを向けること」
この実験でもう一つ引き起こされるのは、科学的なこととは全く違うのだが、永遠に思いを馳せることである。75年間ビーカーと漏斗に触れず、動かさず、観測し続けるというのは、これはもう永遠に近い時間である。これはキリスト教の特徴の一つであるだろうと思うのだけれど、「永遠」と言う事に意識を向けたがる癖がある。と言う事で、私の大好きな疑似永遠的な行為についてのリンク
疑似永遠的な建築
http://www.sagradafamilia.cat/(1882〜2256?)
疑似永遠的な演奏
http://www.john-cage.halberstadt.de/(2000〜2639)