ツイッターをやらない

ポッドキャストで、水道橋博士ツイッターの話をしていた。そもそもミクシーからして私は全然触っていないし、2ちゃんねるもせいぜいまとめサイトを読むくらい。一度、自分の教派と関係するスレッドが宗教板に立ったことがあって、しばらく書き込んだことがあったけれど、ある書き込みを私だと見破られて「オマエダロー」とか書かれたので止めちゃった。
博士がツイッターの良さとして挙げていたのはレスポンスの良さ。「ツイッターのやり方を知りたい」とか書くと、すぐに誰かが教えてくれたり、「○○の本を読んでる」とか書くと、すぐに著者からレスポンスがあったりするそうだ。そりゃあ面白いだろう。だけどやる気がしない。理由を書こう。
レスポンスが良いからと言って、有効な情報だけがどんどん入ってくるわけではない。有効な情報に対してその何十倍何百倍の無駄な情報が入ってくる。「この本を読んでいる」と書いて、その著者が応答してくれるとしても、その何十倍も著者ではない人が書いてくるし、更にその何十倍もほとんど価値のない書き込みがある。その凡百の情報の中から有効な情報を検索して拾い上げなければならないのは疲れる。
博士は「ツイッターをしない人」として安斎肇さんを挙げている。理由として博士は(安斎さんがそうであるかは別にして)浮気をしている人等、自分の居場所がばれないようにする必要がある人はやらなくても良い等としていたけれど、そんなに自分の居場所を明らかにする必要があるのだろうか?私はどちらかというと一人っきりになるのが嫌な人で、絶えず周りに話し相手がいた方が良い人なんだけれど、それでも、一人になって周囲への発信、周囲からの受信を遮断したい時がある(一年に一回あるかないかだけど)。携帯のメールにしても、ブログにしても、どうも他人からのレスポンスが動機になりがちだ。
博士は、「人は一人じゃいけないよ、人は孤独じゃないよ」ことを実感すると言っていたけれど、自分の視野に人がいない時に何かの方法で人間のつながりを確認しなければ人間のつながりを実感できないというのは、むしろ異様なことではないかと思う。以前、友人のためにマリア様の像の写真を取ったけれど、それをメールで送らずにその場で祈ってお終いにしたという「お話」をブログで見たことがある。それについてこのブログで書いたはずなのだが、その記事が見つからない。それはそれとして、自分と相手が(祈りにおいて)つながっていることを、相手に認識してもらえなくても、それは相手に祈りとしてつながりとして有効に機能すると言う確信を語っている。私としてはそれは神という第三者の存在を前提とせざるを得ないと思うのだけれど、それを前提としなくてもそういう「確認できないつながりの実感」はありえるのではないだろうかと思う。
そして最後の点。博士は、ツィッターで色々な人たちの日常をチェックしていることで神の視点を持つことができると言っている。この後対談するはずの伊集院光が今どこで何をしていて対談場所に向かっているのか博士が知っているだとか。そんな視点必要かね?インターネットの発達によって、人間は情報量が多くなりすぎているような気がする。喋り過ぎ、読み過ぎ、聞き過ぎ、見過ぎ。もっと情報量を削ってもよいはずだ。
そんなことをいうとこのブログなど削ってよい情報の最たるものの一つということになるのだけれど。。。