前振りとしての書評

もう一年以上前だけれども、教会のおば様方のお一人に「『婦人会』のお勉強会で読む本がないかしら」とか尋ねられた。ちょっと難しいかなと思いながらも、「長老教会の問い、長老教会の答え」をお勧めした。一年程たって、まだ全体の十分の一程度しか読み進められず、件のおば様からは「あの本は難しすぎて」と怨言を言われる始末。
それはそうと、その本について、知り合いの牧師と話してていたら、「あの著者はあの本で、『処女降誕は信じなくても良い』とか書いてるから、勧められない」等と言われてしまった。そうだっけと思って確認したら、確かにそんなことが書いてある。
ちょっと引用すると

長老教会の中には、処女降誕を歴史的事実であると断言する人、処女降誕は象徴に過ぎないとはばかる人、あるいは処女降誕を文字通りに信じられるべきではないと考えている人など、様々な立場の人がいます。明らかなことは、処女降誕の教理を信じることは、救いにとって必ずしも本質的なことではないということです。なぜなら、処女降誕は、新約聖書に描かれているキリスト証言の中で、必ずしも決定的な鍵となる記述ではないからです。

確かにこの記述の特に「明らかなことは」以下は、同意しかねる。なぜなら、処女降誕はキリストの救済の理屈の中で本質的な要素である「キリストの無罪性」を保証するほぼ唯一の根拠であり、象徴だからである。処女降誕無しには、十字架の贖罪死は成り立ちえないと言ってもいい筈だ。
もちろん、世間のキリスト教徒の中には、キリストの本質を十字架の贖罪死以外に見る人もいて、その場合、処女降誕は本質どころか、逆に人間キリストの本質を見失わせる迷惑なドグマに過ぎないだろう。ところで、著者マッキムは、「歴史的事実であると断言する人」と並んで、「象徴に過ぎないとはばかる人」「文字通りに信じられるべきではないと考えている人」を挙げる。この二つはほぼ同じ意味なのではないか。つまり、処女降誕は一種の象徴であり、その出来事をそのまま文字通り歴史的事実として受け入れるのではなく、むしろそこに象徴的に示されている意味内容を受け入れるべきであるということだ。とすると、少なくともマッキムが挙げている三種の人々は程度の差こそあれ、処女降誕が象徴的に指し示しているキリストの無罪性を受け入れることは認めているわけで、キリストの本質を十字架の贖罪死に置くことに意義を見いだしているわけではないのだろう。
その意味では、マッキムもまあまあ保守的なところを保ってはいるというところだろう。