宗教的認識の続き

昨日、他人の証しに辟易した話を書いたけど、別に彼女のことやその証しを否定しようというつもりは全くないことを改めて書いておく。
昨日の話は要は、キリスト教でよくある「証し」は、出来事の因果関係の評価が客観性がないこと、その出来事自体が一般化できない事例であることから、一般的な信仰の「効用」を説明するには不適であるという話だった(つもりで書いた)。しかし、実をいうと宗教というもの自体が、客観性とか一般化とか言う事とはあまり相容れない領域の事柄だ。
よくいくキリスト教書籍の専門店に「飛び込め深くはない」と言うタイトルの本があって、「浅いところに飛び込んだらかえって怪我するだろー」等と心の中で突っ込んでいたのだけれど、宗教的な認識というものは、そうやって自分から飛び込んでみないと得ることが出来ない。客観的に他人が「宗教」しているのを観察して、その是非を判断するということは出来ない。その時その他人が経験している「宗教的な体験」は、全く同じ(様な)条件で試みても恐らく再現できない。またもし再現したとしても、その出来事を宗教体験として有効な体験であると認識するには、ある宗教的な認識のチャンネルがなければならない。信仰を持っている人灯っていない人とでは、同じ出来事を体験し、前者がそれを極めて宗教的な体験であると判断しても、後者はそれを全く宗教的な意味を持たない出来事であると判断することがある。具体的な宗教体験って言うのはそう言うものだ。