宗教的認識

他の宗教のことはよく知らないけれど、キリスト教では時々「証し」ってことをする。要は自分の宗教的体験を披露することなのだが、教派によっては、これを重視して、みんなそれぞれ自分の持ちネタがあったりする。私のところの教派はそれほど「証し」を重視しておらず、私自身それが苦手なこともあって、そう言う場面にはあまり巡り合わないようにしている。
つい先日ちょっとした集まりの席で、不意に同席していたオバサンの「証し」を聞く羽目になった。あまり詳細に書いても何なんだけど、簡単に書くとこんな話。


そのオバサンの娘(今は既に20代半ばだと思う)は、生まれた時に、口唇口蓋裂があったのだそうだ(現在はその後の治療で全く日常的には普通の人と区別できない状態らしい)。子どもが生まれてから数日たっても会わせてもらえないので、もしやと思って尋ねたら、医者から先天的な障害があって治療が必要なこと、このままではミルクを飲むことが難しい上、発音に障害が残る場合があると聞かされた。流石に動揺して夜中に一人で泣いていると、ふと聖書の言葉が心に浮かんだのだそうだ。(その聖書の箇所がどこであったか、その時は聞いたのだけど今は覚えていない。)その言葉が浮かんだ途端、心がすっと穏やかになったのだそうだ。
更に翌日、普通の哺乳瓶ではミルクを飲み辛い娘のために、看護婦さんが、哺乳瓶の乳首の穴を微妙に大きくしてくれた。するとミルクを飲めないはずの娘が上手に舌で乳首を押さえてミルクを飲んだのだそうだ。
それを見ていた看護婦さんが「この子は器用だ」としきりに感心したのだと。
聖書の言葉はこんな風にスゴイ力があるんですよ。メデタシメデタシ。


露骨に不快感を表情に出したり、突っ込んだりするほど自分も厨房ではないので、「すごいですねぇ」とか流していたのだけれど、まさに私が苦手な「証し」の典型なので、内心「これはブログに書こうっと」と決心した次第。
私がこの手の話を苦手とするのは、主に二つの理由による。

第一に、この話では出来事の因果付けが恣意的であるということ。
泣いてる時に聖書の言葉がふと心に浮かんでそれで、気分が落ち着いたというのは、その人の内心のことなので、どんなことが起ころうとそれはそれで仕方がないと思うけれど、翌日の話はあまり関係ないだろう。看護婦さんが「この子は器用だ」と驚いたとしても、それが本当に口唇口蓋裂の新生児に特異的な程器用なのかどうか、場合によっては大した器用さではないのではないか。それ以上に、子どもがミルクを無事飲めたことについて、母親がその原因として感謝すべきなのは、前夜自分の脳裏に浮かんだ聖書の言葉ではなく、子どものために一生懸命乳首に微妙な細工を施し、丁寧にミルクを飲ませてくれたこの看護婦に対してであろう。
相手のために一生懸命工夫して時間を割いてその結果ようやく良い結果が出たら、「これは私が信じている神様のおかげだ」と言われちゃったら苦労してあげた方としてはあまり気分の良くないことに違いない。宗教家の嫌われるところは、このような恣意的に我田引水な因果関係を作って、都合の良いことは自分の信仰のおかげと相手の行為や努力を無視するところではないかと思う。
「看護婦さんありがとう」がまずあって、その後「そんなことも含めて全部を神様ありがとう」でなきゃ。

第二に、彼女がこの出来事で自分の信仰を本当に強くさせられたのがどれ程事実であったとしても、それは、聞いている私らには、ほとんど何の意味ももたらさないと言うこと。
この話を聞いて、聞いた私たちの感想は「すごいですね」「よかったですね」しかありえない。「じゃあ私も同じようにしてみよう」「私も同じようなことが起こることを期待しよう」と言う反応はありえない。彼女の経験は全く彼女だけにしか起こらないことであり、新生児が先天的な障害を持って生まれたことに動揺して夜中に一人涙を流す全ての母親に起こることではない。たとえその母親が、この彼女と同程度の信仰を持ち同程度に聖書を読んでいたとしても、それどころか、彼女よりもずっと強い信仰を持ちずっと熱心に聖書を読んでいたとしても、彼女と同じ、または類似の出来事が起こるとは限らない。
確かに多くのクリスチャンが、それぞれの宗教的な体験を持ち、時には非常に劇的に信仰によってその人生を支えられたり変えられたり動かされたりしている。けれども、間違いなくそれと同程度ないしははるかにそれ以上、信仰を持っていたとしても、その信仰によって人生を支えられない、変えられない、動かされない例がある。「神様を信じれば幸せになりますよ」と言われ、実際にその人は神様を信じて幸せになっていると感じているのかもしれないけれども、それでは私もその人のように神様を信じたら同じように幸せを感じることが出来るのかといえば、そんなことは保証されないのだ。


私もキリスト教徒の端くれなので、「(キリスト教の)神様を信じれば幸せになります」というのは、真理であると思っている。それは、恣意的でも、主観的でもなく、すべての人に普遍的に成り立つ法則とか、公理としてそうであると思っている。
ただし、その場合の「幸せ」とは、必ずしも、一般に人が無前提で認める「幸せ」とは限らない。時には今の状態が「幸せ」であることを理解しがたいような状況に置かれることさえある。例えば、信仰の故に命を捨てなければならない殉教者の置かれた状況は、一般には決して「幸せ」とは言えないだろう。しかし、信仰を持ったその人にとってはそれは既に幸せなのだ。
もちろん時には、一般的にも幸せと言えるような状況になることがある。しかしそれを普遍化一般化することは出来ない。誰でも「あーそれはよかったね」と言えるような状況だけをとりだし、他の要因を無視して恣意的にその幸せの原因を宗教に結びつけて、「これが宗教だ」と披露して見せる「証し」は、愚かしいだけだ。