悼む

昔お世話になった牧師さんが召された(亡くなったって事ね)。で、葬儀に出た。その先生の息子は自分よりも少し年下で、当然子どもの頃からの知りあい。当日葬儀の司式をした牧師は、自分よりも少し年上で、同じく子どものころからの知りあい。私はそれぞれ数年ぶりに顔を合わせた。亡くなった牧師先生のここ2〜3年の肉体的教会的苦闘は、近くの別の教会にいる私のところまで伝わってきていたし、何度か礼拝に出させていただいた時に、自分の目でも見ていた。何か助けることができないだろうか、と思っていたし、実際、近々その関係でお会いする約束をしていたところだった。にも関わらず、結局自分は何もできなかったということの歯痒さを感じながらの葬儀参列だった。
司式をした牧師も、亡くなった牧師の息子も、ここ数年非常に苦労していた。私はそのことを知っており、もちろん心配し祈っていた。けれど、むしろ距離をおいていた。二人とも最近立ち直りつつあって、私もそのことは喜んでいたのだけれど、葬儀の中で、亡くなられた先生が、二人のことを如何に心にかけ、手を差し伸べていたか。その先生らしい働きの姿を聞いた。自分は何もしていないことを改めて思わされ、そのことで涙が出た。隣にいた知人は、たぶん、私が死を悼んで涙していると思っただろうけれど、悔しくて泣いていた。それも自分が何もしていなかったことが悔しくて泣いていた。


一般論になるけれど、人が亡くなるということは、誰の死であっても、突然であり、慌ただしいことである。周りに残された人々は、多かれ少なかれ、また様々な面で、その人に対して、十分に尽くしきれなかったという後悔と、もしかしたら他に選択肢があったのではないかという疑念にかられる。「あれもしてあげればよかった」とか「ああしてあげておけばよかったのかもしれない」という思いだ。
その時に、私たちができるのは、「しっかりとした葬儀をあげること」だ。みんなが彼のために集まり、花を献げ、祈りを献げる。多少面倒であっても、決まり事に則って、誰の目から見ても「しっかりとした葬儀」を献げる事が、残された者の「後悔と疑念」「してあげられなかった感」を解消する。
以前、仏式の葬儀で、坊さんの読経に合わせて、近所の人たちが自発的(?)にお経を唱え始め、みんなで大合唱になった場面に出会ったことがある。「あぁ、みんなで彼のために最後にしてあげられることをしてあげているのだなぁ」と感銘を受けた。
キリスト教の葬儀は基本的には「礼拝」だ。特にプロテスタント教会は、亡くなった人はそれ以降神に全面的に委ねてしまうので、人間は亡くなった人のために、肉体を葬ること以外のことをしてあげることができない。それは一方では、全能者にその人のことを全て委ねることができるということであり、私たちは安心ですということができるのだけれども、その一方で「してあげられなかった感」の解消という葬儀の大事な側面において手薄なのではないかと思う。


私に許されたことは、そこに行ったこと、涙することと、できるだけ大きな声で先生の愛唱賛美歌を歌うことくらいだった。
悲しいなぁ