ミルトンとニーチェ

また町山智浩さんのボットキャストhttp://www.enterjam.com/tokuden.htmlインスパイヤーされて書きます。と言ってもミルトンの「失楽園」もニーチェの「悦ばしき知識」も読んだわけではなく、単に町山さんのコメントに脊髄反射しているだけですので、的外れかもしれません。
最初に、ダークナイトのジョーカーは失楽園のサタンであるという話。
ジョーカー(サタン)は、絶対善である神に対する絶対悪であり、サタンは「たとえ地獄においても、天国において奴隷たるよりも地獄の支配者たるほうがどれ程善いことか」と言ったとか。マンモンが「自由に誰にも責任を負うことなく、自らの善きものに従って自主独立の生涯を送ろうではないか」と言ったとか。町山さんは、人間は自己の自由を追求し続けることこそ本質であり、奴隷的従属よりも、悪であろうと反抗しつづける姿に快感を覚えると指摘する。
しかし、コスモス(秩序)と対立するカオス(渾沌)は、たとえどれだけ反抗しつづけたとしても、決して勝利を収めることがないむなしい反抗でしかない。カオスがコスモスを凌駕して勝利を収めることはない。何故なら、全てのルールを破壊して渾沌をもたらすならば、それは最終的に自己破壊に向かわざるを得ないからだ。逆に言えば、コスモスが存在しているからこそカオスも存在し得る。つまり、「人間の自由」は、神から逃れることは出来ないのだ。ジョーカー(=失楽園のサタン)の姿に快感を覚えるのは、彼らの反抗そのものが素晴らしいからではない、単純に自滅することを自覚した上で立ち向かう「滅びの美学」が快感だからだ。勝つことが出来ないからこそジョーカーは戦い続けることができる。万が一にでも勝ってしまったら、それは彼自身の崩壊を意味する。
その意味でジョーカー的な悪は物語でしかない。現実の悪、現実の秩序への反抗は、滅びの美学を伴う純粋なカオスではなく、現在の秩序にとって代わる(その人自身に都合の良い)別の秩序の要求でしかない。人間が自由を求める反抗は自己愛の表明でしかなく、それは何も美しくない。

「グラウンドホッグデイ」はニーチェの思想の体現であるとの話。
キリスト教的考え方は今を蔑ろにする考えだ」というのは全くの誤解。未来(天国)に希望を持って生きることは、今の生活を抑圧することではない。むしろ、未来(天国)が無ければ、私たちの今は無意味なものとなる。ニーチェの言う「超人」は、自分で自分自身の生に絶対的な揺るぎない勝ちを与えることが出来る人のことだろう。しかし、現実の人間はそんなことは出来はしない。
「グラウンドホッグデイ」の主人公は2月2日を三千回繰り返した結果、ピアノとフランスの詩に詳しくなって他人を愛する事ができるようになったそうだけど、もしそれが本当に「永遠」に「回帰」したら、彼はその理想的な状況に留まれるとは思えない。何しろ無限に2月2日が繰り返すのだ。ピアノに限らず全ての楽器を習得し、フランスの詩に限らず全ての本を読破し、24時間で可能な限りの人を助ける為に最も能率的な手順を編み出してその通りに全ての人を助け、最愛の人物と最も幸せなデートを楽しむための手順を実行できるようになったとしても、まだその日は繰り返す。ありとあらゆるパターンをやり尽くしても、その日は繰り返す。全てをやり尽くした後、それでも永遠に続く2月2日を前にして、彼はそれでもまだ「善いこと」に留まり続けられるだろうか。自己の生に積極的な善き意味を見出し続けられるだろうか。おそらくそれは無理だろう。
「終り」がなければ、私たちは今この瞬間に価値を見いだすことはできない。自身の生が善であると認めてもらわなければ、自分で自分の生に揺るぎない意味を付けることは出来ない。
未来のために生きるのは、現在を蔑ろすることではない。将来使う為に目の前の貧しい人に施さず貯金をせよなんて事を聖書は教えていない。