定点観測09

また今日になった。ボランティアのことを書こうと思う。
阪神淡路大震災は、日本にボランティア活動というものを浸透させたきっかけとなった出来事だと言われているそうだ。
当時、自分も何度かボランティアがいっぱい居る避難所に行ったことがあった(自分の住んでいるところも避難所みたいなものだったけれど)。その避難所に限らず、多くの避難所に全国からボランティアの人たちが集まっていた。彼らはみんな生き生きとしていた。それはまあ当然だろう、彼らは困っている人を助けるという極めて分かりやすい動機でそこに集まっていた。そこに来れば、目の前に困っている人たちははいて捨てるほどいた。そしてどんなことでもそこで彼らが動けば感謝の言葉が返ってくる。目的も対象もその結果も目の前にある。みんなが自分のしたいことをしているのだから、生き生きとしているのは当然なわけだ。
一週間二週間すると、段々ボランティアを取りまとめる仕事が大きくなってくる。ボランティアの人数は増えるし、それらを動かす段取りが必要になってくる。行政を始めとする外部との連絡や調整が必要になってくる。終いには、避難所を閉鎖して避難してきた人たちにはみんな他の避難所に移動してもらい、ボランティアにも解散してもらわなければならない。直接働きに結びつかない動機、目の前にいない相手、すぐには現れない結果を相手にしなければならない。ボランティアの中心にいた人たちはその手の仕事に追われ始める。そんなことをやる人たちと同時に、相変らず直接いわゆる現場で働く人たちは相変らずの仕事をしている。両者の間に少なからず溝が生じてくる。そりゃそうだ。目に見えない動機目に見えない対象目に見えない結果を相手にするのであれば、現実の生活と一緒じゃないか。始めは、動機も対象も結果も目の前にあった。それはまるで天国のようだ。天国だと思っていた場所がやっぱり現実世界だと分かると、純粋に単純に困っている人を助けることが喜びであった人たちはバラバラに散っていくことになる。
その結果残るのは、目に見えない動機と対象と結果を相手にしても耐えられるモチベーションを持った者たちである。そしてそのモチベーションは往々にしてある種の思想に裏打ちされており、結果としてボランティアは「運動」となり、普通の社会、日常生活を送る人々から遊離していく。思想に裏打ちされた社会運動が日常生活と遊離せずに共存できるような社会になればいいんだけどね。


さっき、当日芦屋で燃えていた家の映像を見ちゃって、ダメだね相変らず。