ちょっと苛々してるなぁ。

知的なバックボーンに裏打ちされた会話は見ていて楽しい。聞いてる自分も判らないのでは元も子もないけれど、話を聞いていて「あぁー、あれはそういうことなのかぁ」と知識と知識が結ばれる瞬間は快感だ。


で、牧師の話なんだけど、かつて神学は「諸学の女王」と呼ばれ、神学を修めるということは全ての学問を修めていることを意味していた。現在、学問の領域だけで神学を修めている人がどのくらいいるのか知らないけれど、一般には神学の担い手は牧師だろう。しかし、牧師がどれ程「諸学」を修めているだろうか。それどころか、神学諸科もマトモに修めていない牧師が多いのではないか。そんな牧師と話していると、「知識と知識が結ばれる快感」なぞ望むべくもない。
彼らは自分の知っているバイアスのかかった断片的な知識だけが世界の全てであるかのように語る。そしてそれはしばしば受け入れることを強制してくる。神学は、題目を並べてレッテルを貼っただけであり内容が抜け落ちている。聖書解釈は、独りよがりの印象批評でしかない。喋れもしないのに、単語の意味だけを孫引きする。一般社会に対する知識は更に疎く、そこには無知と決め付けとデマと疑似科学が溢れている。他人の言葉に耳を傾けたり、その人の中の新しいものを引き出したり、その人を自分の力で立たせたりするために必要な最低限の「技術」を知らず、そんな「技術」があることさえも知らない。そもそもそんなことをする意志すらない。


それでも多くの牧師は、熱意をもって祈っているのだろう。それがあればいいのかもしれない。いいのかもしれないけれど、それでいいのだろうか?ましてや祈っていないのだとしたら。。。



追加
事務処理が全く出来ないとか、領収書一枚切れないとか、お金の管理がルーズとか、自分のスケジュールを把握していない、時間にルーズ、やるべきことをすぐ忘れる。
要は、社会人として成り立っていない

自分の領分に口を挟まれると不機嫌になる。他人のやり方を聞かない。気に入らないと意趣返しする。何年も前のことを持ちだす。些細なことを気にする。その割に偉ぶる。要はコドモ。

はぁ。