後からだったら何でも言える。

河野澄子さんが亡くなった。1994年の6月27日から、14年あまりの療養生活だった。
あの頃自分は、有機化学専攻の学部学生だった。サリンと言う化合物名を聴いて、院生の先輩達と合成法を調べたりした。そんな確認作業をしなかったとしても、それほどの毒ガスを、なおかつ近隣の数件の人を殺すほど多量に合成するなどということが、一般人の自宅に保管してある農薬を間違って混合した程度でできる筈がないことは、明らかだった。
誰かが(それがオウム真理教であるとは思いもよらなかったが)意図して撒かなければ、そんな事態が起こるはずがない。なぜ、警察も新聞社をはじめとする報道機関も、そのことに気付かないのか不思議でならなかった。
その場で現場にいる警察官や新聞記者にそこまでの科学知識がなかったとしても、署内や社内に、その分野の知識を持った人がいて「(河野さんが間違ってにしても意図してにしてもサリンを発生させた)可能性はありえない」と言わなかったのだろうか。
それ以来、似たようなことをいくつも経験して、警察だの報道だのと言うのはその程度の連中だと思っている。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/matumoto.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080805-00000038-mai-soci
以下記事全文

<河野澄子さん死去>「14年間家族のために生きてくれた」

8月5日12時44分配信 毎日新聞

 松本サリン事件被害者の河野義行さん(58)の妻澄子さん(60)が5日、亡くなった。事件発生から14年。澄子さんは事件の後遺症で意識が戻らないままだったが、容疑者扱いを受ける苦難を乗り越えてきた河野さんは「家族のために生きてくれた」との談話を公表した。オウム真理教事件の被害者らからも冥福を祈る声が相次いだ。

 「限りあるエネルギーをより有意義なことに使いたい」−−。河野さんは澄子さんへの思いを常に持ち続け、看病を続けていた。

 河野さんが今年6月発売の5冊目の著書「命あるがぎり−松本サリン事件を超えて」(第三文明社)を上梓(じょうし)したのも意識が戻らないまま還暦を迎えた妻への感謝の気持ちからだった。同書には「家族を支えているのはあなた(妻)だよ。子供や世の中の人もあなたの存在に励まさされているんだよ」と記した。

 6月26日、河野さんは澄子さんを病院に見舞った。その時点で、澄子さんは胃腸の動きが弱まり、「余命3カ月」と医師から宣告されたという。今月4日には医師から「あと1週間ぐらいの命かもしれない」と告げられていた。5日午前2時45分ごろに病院から「状態が危ない」と一報があり急行したが、医師の「間に合いませんでした」との言葉で、妻の死を知ったという。 松本サリン事件で次男豊さん(当時23歳)を亡くした小林房枝さん(66)は「大変残念です。奥さんと直接お会いする機会はありませんでしたが、事件以来、14年間も意識のないまま闘ってこられた象徴的存在だったので、本当にさみしい気持ちがします。奥さんが頑張ることが、私たちの心の励みになったと思います。オウム犯罪の恐ろしさを今一度、感じます」と悔しさをにじませながら話した。

 オウム真理教元代表で新団体「ひかりの輪」の上祐史浩代表(45)は5日、「深い衝撃と悲しみを感じている。私たちの罪の重さを改めて強く自覚し、再び同じ過ちが繰り返されないための総括や賠償などを通じて、いっそうの償いに努める」とのコメントを出した。【藤原章博、伊藤一郎、棚部秀行】