対岸の火事か、他山の石か

日本基督教団でちょっとしたニュースがあった。
ニュースはキリスト新聞社ニュースフラッシュ

日基教団常議委員会
“未受洗者への配餐NO”
公然実施の牧師に退任勧告

 日本基督教団第35総会期常議員会は、10月22、23日の両日行われた第3回常議員会で、未受洗者への陪餐を行っていると公にしていた北村慈郎氏(同教団紅葉坂教会牧師)に対して教師退任を勧告する議案が可決された。常議員会には29人が出席、うち16人がこの議案に賛成して可決となった。同議案は罷免などを求める「処分」ではないため法的拘束力はなく、今後は公式な勧告が同氏へと通知される予定。
 山北宣久議長名で提案されたこの議案は、未受洗者への配餐について「2006年6月27日付け信仰職制委員会答申が否定しており、仮に教会総会や教会役員会が決定したものであっても……無効」、教団は「その信仰上の組織として教憲教規によって立つ教会」であり、それを逸脱する自由は認められないとした上で、「異なる教会の在り方を主張、実践されるのであれば……、独自の教会を建てられるべき」と、未受洗者への配餐停止か同教団の教師退任を勧告している。
 執行部側は、これまで山北議長が教区総会などを通じて再三にわたり表明してきた「正しい聖礼典」の執行を求めたに過ぎないと説明。
 北村氏は今回の可決を受けて、「執行部としては当然の判断だろうが、異なる立場を切り捨てるやり方は歴史の中でいずれ正されていくはず。戦時下の合同教会の一員として歩む決意をした以上、今後も教団に留まり続ける」とコメントしている。
 同氏はこれまで、いわゆる「オープン聖餐」の立場を公に表明し、雑誌「福音と世界」でもその主張を掲載した経緯がある。同様の議案が可決されたのは教団創立以来のこと。

判らない人のために、まず簡単な解説を。知ってる人は飛ばして結構。
キリスト教には、プロテスタントでは「聖礼典」、カトリックでは「秘跡」という儀式がある。両者に共通し、プロテスタントで唯二認められているのが、「聖餐」と「洗礼」。で、これまで二千年近く、聖餐に参加するには洗礼を受けていなければならない。つまり、正式にクリスチャンとなって居なければならなかった。それを差別だと言って、その時礼拝に出席している人なら、誰でも皆聖餐式に参加してよいという考えがいわゆる「オープン聖餐」である。そりゃダメで、やっぱり、昔からの通り、洗礼を受けた人だけが聖餐を受けられると限定すべきと言うのが、山北議長を始めとする、教団常議員の16名の考え方である。

ここにはもう一つ問題があって、記事の二段落目にあるように、教団の規則や上部団体の決定が、個別の教会や牧師の判断を拘束するかどうかが問題となる。山北議長は、「教団の規則は『ダメ』なんだから、それが嫌なら、教団を辞めて自分で教会作ったら?」と言うもの。教会は、個人の信仰に関わる判断を何処まで拘束することができるのか、と言う問題である。

わたしは、聖餐の理解においては山北議長の立場に立つし、教会の拘束力については、山北議長よりももっとずっと厳しい制度を持つ教会に属しているので、今回のこの問題は、ウチントコでは起こりっこないし、もし起こったら、一発で首がとんでオシマイになるだろう。

北村牧師の立場の人の気持ちや理屈を想像できないわけではない。参考のために、今回のことについて、同様の理解を持つ日本キリスト教団の兵庫教区と西宮公同教会の「見解」なるものを見つけたので、後に記しておく。
要は「教会が出会っている人」を「“未”受洗者と言ってしまうのは、あまりに傲慢」であり、「教憲教規」を「振り回すことで教会であろうと」することは「お粗末」、つまり、教憲教規を楯に教会を拘束するな。と言うことになる。


さて、こっから、わたしの見解。
聖餐は、オマジナイではなく、パンとワインはそのものが効力を持つのではなく、執行者の祈りが効力を持つのでもない。単なる小麦粉の塊と葡萄の汁が、信仰的な意味を持つためには、それを受ける人の知的理解と信仰的な力が必要である(ここまでは、北村先生も認めて下さると思う。そうでないなら、だれかれ構わず道端でパンを渡せば救われるってことになってしまう)。この知的理解と信仰的な力は、その人の個人的主観的認識ではなく、客観性を持たなくてはならない。なぜなら、私たちの信仰は単なる個人的な認識ではなく、客観的な「何か」でなくてはならないからである。これは宗教改革以来の伝統的な理解であって、今日でも最も妥当な理解だと思う。
北村牧師は、たぶん、そんなもの、堅苦しく、承認したり免状を与えたりなんてことしなくても、その人が、イエス様を信じているのであれば、それでヨイではないか。とおっしゃるのだと思う。
しかし、わたしは、「その人が、イエス様を信じている」なんて自分で思っていることなんていうのは、極めて不確かな頼りないものではないかと思うのです。それは第三者に客観的に保証してもらわなくてはならない。もちろん根本的には、一番確実に保証するのは神様自身なのですが、神様の保証と言うのは人間には掴みがたいものである場合が多いので、神様の直接の保証ほど確実・正確ではなくても、多少不正確でもハッキリと確認できる、目に見える保証で、しかし、全く人間の判断ではない(と仮に承認できる)保証によって、個人の信仰を保証する必要があると思うのです。それが教会による承認というわけです。教会なんてのは人間の集まりじゃないか、その教会が他人の信仰を保証したり承認したりするのは傲慢ではないかと言えば、それはその通りなのですが、同じ人間でも、一人の人が言い張るのと、複数の人が承認するのでは後者の方が確実だろうし、なにしろ教会は、神の身体、神の意志の表れの器であると信じられているのであるから、そこには(神様自身を除けば)一番確実な(もちろん過ちが必然的に伴うことを承認した上で)保証であると言えると思うのです。従って、聖餐が聖餐として信仰的な効力を持つためには、神の器であり、多くの人の客観的な判断機関である教会による公的な承認、つまり洗礼が要求されるのが、最も確実な道であるのです。
なお、その客観的な判断が万が一誤っていた場合、つまり、信仰のある人を承認しなかったり、逆に無い人を承認していた場合、もちろん、その責任は教会が負うのですが、そこでその人が受ける不利益は、その人の最終的な救いや裁きには本質的な意味を持たないと言ってよいはずです。つまり、もし教会の判断の誤りで洗礼を受けられなかったり聖餐を受けられなかったりした人がいた場合、しかしそのことでその人の信仰や救いが本質的に損なわれると言うわけではない。ということです。
その点でも、「折角教会に縁があってきてくれた人を聖餐から除外する」のは本質的な問題ではないことになります。

えーっと、この後、教会の拘束力の話を書こうと思ったのですが、長くなりすぎるので、明日にします。

以下、西宮公同教会のブログから全文引用

小さな手大きな手

2007年11月01週

日本基督教団総会議長 
山北宣久様常議員の皆様

 2007年10月21〜22日の、日本基督教団常議員会における「北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件」の議決について、28日礼拝の後の集りで話し合われたことを、このことについての西宮公同教会の見解として述べさせていただきます。
 私ども、西宮公同教会の理解によれば、教会というものは「・・・信仰共同体としての教会は教憲教規によってその具体的な姿を現している」ということにはなりにくいと考えております。およそ70年前、西宮公同教会の小さな種がまかれた時の何よりの願いは「イエス・キリストにならい、小さいもの、幼いもの、力の弱いものに寄り添って生きる」ということでした。その願いが引き継がれて、この地域で教会の歴史を刻んできて今日に至っています。教憲教規は西宮公同教会の歩みの中で、目に見えないところで、しかし確実に教会の歩みを支えてきました。
 いずれにしても、一度たりともそれを振り回すことで教会であろうとしたことはありません。この度の「北村慈郎教師に対し日本基督教団の教師退任を勧告する」は、もしささやかに歩んできた教会の歩みというものを考慮するなら、口に出しにくいことが平気で言われる、お粗末というよりない議案です。
 例えば“未受洗者”という、教会が出会っている人の定義のことです。もし、受洗ということが、いくばくかの人の決断があるとしても、招かれてのみ可能なものであったとすれば、誰かに“未”受洗者と言ってしまうのは、あまりに傲慢というよりありません。
 例えば“未受洗者への配餐”について、教会総会や、役員会の決定であっても“無効”だと主張されています。教会総会や役員会が絶対ではないにしても、導かれた場所で恵みを信じてその歩みを刻んできた教会の決定であったとすれば、“無効”と断定する前に、見つめるべきこと、聞くべきことはあったはずで、それをいきなり“無効”と断定するのは乱暴すぎます。
 西宮公同教会では、およそ30年前から主任担任教師が“補教師”で、その補教師による聖礼典(洗礼・聖餐)が執行されることを了承し今日に至っています。今回「北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件」議案及びその承認などの経緯からすれば、西宮公同教会の場合も“退任勧告”ということになります。その場合、そのことのすべてを受けとめ西宮公同教会としての理解や見解を述べさせていただく用意のあることを申し述べさせていただきます。
                     2007年10月28日
                   日本基督教団 西宮公同教会



「北村慈郎教師に対し教師退職勧告を行う件」についての兵庫教区教育部委員会としての見解」

 2007年10月25日(木)に開催された兵庫教区教育部委員会で、教団常議員会が「北村慈郎教師の退職勧告に関する件」を可決したことの報告がありました。教会の聖餐式で、そこにいた人たちすべてを招いたことが、教師の退職に値するとしたこの残念な議案・決議に兵庫教区教育部委員会としての見解をまとめ、教団常議員会及び諸教会に示すことが確認されました。
 兵庫教区教育部委員会では、3年ほど前から、教会教育研究会を呼びかけ、「希望への教育」(レギ−ネ・シントラー)、「生きる力の火種のとうとさ」(服部祥子)などの学習を通して、教会教育(教会学校、付属施設などの働き)における子ども理解を深めてきました。
 10月25日の教育部委員会に引き続いて行われた「第8回教会教育研究会」ではテキストである「幼児期」(岡本夏木)の最終章を学ぶことになりました。「幼児期」に書かれているのは、ささやかな理解によればその根底に置かれているのは「対抗文化」としての“幼児期”です。そのことは著者の言葉で「『真の幼児期』は社会を常に人間的に批判し、自己を人間存在たらしめてゆく視座として、私たちの中に働き続けてくれる」と要約されています。“未完・未熟”である幼児期が、「対抗文化」たり得るのは、その時にしか育たない、しかし人間たらしめる何かがその時に育っているとの「理解によっています。このことは幼児期と向い合う大人が、その意味や重大さを理解してはじめて「対抗文化」たり得るのはもちろんです。同時に、完全無欠があって、それが目的、目標になって人は育つという理解からは、「対抗文化」としての幼児期という視点は生まれてきません。
「北村慈郎教師に対し教師退職勧告を行う件」が決議されたことで、危なっかしいと思わざるを得ないのは、この議案・決議をするところからは、兵庫教区教育部委員会などで積み上げてきた子ども理解は生まれようがないことです。教会は、教会学校、付属施設などの働きによって、少なからず子どもたちと向い合ってきました。退職を勧告する議案や決議は、そうして子どもたちと向い合うことの意味を踏みにじる、全く配慮を欠いた議案、決議であったと言わざるを得ません。子どもと(更に子ども的なものと向い合う)大人としての判断・英知が生きるとすれば、それを振り回すことではなく、寄り添ったり、見守ったり、後押ししたりなどの働きです。兵庫教区教育部委員会は、教会教育(教会学校、付属施設などの働き)が、教会の未来への希望であるとして、子ども理解の学習を諸教会に呼びかけ実現してきました。この度の常議員会の議案・決定からは、教会の希望も教会の子どもたちの希望も何一つ読みとることができないのは残念です。
                    2007年10月30日
                         日本基督教団
                     兵庫教区教育部委員会(上記の見解は、2007年10月25日の兵庫教区教育部委員会の確認にもとづいて委員長がまとめました。)