対岸の火事か、他山の石か(のつづき)

明日になりました(笑)。
教会の拘束力の話です。

昨日書きましたように、聖餐式に参加できる資格の問題は、キリスト教の信仰の中心に関わる問題です。しかし、そうだとすると、それほど重要な問題であるにも関わらず、日本基督教団は、
>>同議案は罷免などを求める「処分」ではないため法的拘束力はなく、とか、
>>再三にわたり表明してきた「正しい聖礼典」の執行を求めたに過ぎないと説明。とか、
>>同様の議案が可決されたのは教団創立以来とか、
ずいぶん慎重な姿勢に見える(少なくとも私には。先回書いたように、わが教会であれば、これだけ確信犯であれば、すぐクビになるだろう)

どうしてこんな大切な問題に、及び腰なのか。
こっからは、また長々とした説明なので、知ってる人は飛ばして下さって結構です。
日本キリスト教団は、戦時中に全てのプロテスタント教会を統合する政府の命令によって作られた教派であり(「全ての」って言い方自体、厳密な表現ではないけれど、まあ勘弁して)、信仰上は実に多様な教派の寄せ集めである。戦後、私らの教会を含めて、少なからぬ教会が、教団を飛び出したけれど、多くの教会は、政府の圧力とは言え、教会が一つにまとまったのは良いことだとして、そこにとどまり、日本キリスト教団は戦後も日本最大のプロテスタント教派としての地位を保つ事になる。
しかし、前述のように、沢山の教派が集まった教団ですから、一応教会の規則(=教憲教規)はありますが、それは「振りかざしてはいけない」、「目に見えないところで教会の歩みを支える」ものでしかない。つまり使うことができない伝家の宝刀というわけです。
この、教会が規則を設けて、配下にある教会を拘束することができるかどうかということが、戦後、教団に残るか飛び出したかの一つの試金石になっており、残った人たちは、せいぜい「法的拘束力を持たない勧告」しか出せないというわけです。


でここから私の見解
無闇に権威を振りかざしちゃいけないとか、断定する前に、見つめるべきこと、聞くべきことはある筈というのは、もちろん当然のことなのだが、それにしても組織としての教会は、何がしかの一致を持たなければ、そもそも組織として成り立たないのではないかと思うわけです。そこでは、正当な議論が封じられるようなことがあってはならないのは当然ではあるが、議論をしてよいというのと、結論を持ってよいと言うのとは、次元が違うのである。つまり、聖餐式に誰でも参加してよいのではないかと議論することは、議論としては何も問題ないのではあるが、それを実行しちゃうのは、少なくともまだ議論が収束していない時点では早計としか言えないのである。自分がよいと思うことなら、どんなに反対する人がいてもどんどんやっちゃって良いというのは、暴論で、反対する人と徹底的に議論して、何とか収束点を見いだす努力を放棄してはならない。その努力こそが、本当の意味で、「(相手に)寄り添って生きる」と言うことではないかと思うわけです。

で、教会がその共有している見解をもって、そこに属するメンバーを「拘束」することが是か非かと言えば、やっぱり是ではないかと思うわけです。それは、「色んな考え方をすることを禁じる」と言うのではなく、「異なる教会の在り方を主張、実践されるのであれば……、独自の教会を建てられるべき」と言う山北議長の見解そのものである。日本キリスト教団は、間借なりにも「洗礼を受けた人だけが聖餐に参加することができる」と言う見解を持った教会なのだから、正式な手続きを取って、同じ重さで「洗礼を受けていなくても聖餐に参加することができる」という見解を持たないかぎり、それを実行したいのなら、教団から出てそういう見解の教会を作りなよ。と言うことになるのである。

組織というのはそうやって、維持しなければ、早晩、組織としての体をなさなくなる。どんな人でも、どんな考えでも、この組織に受け入れることが出きる組織などというものは少なくとも人間の組織としてはありえないのである。

そんな「見解」を振りかざされたって、自分はそれを承認したわけでない、一部の人たちが勝手に言っているのだ。と言われるかもしれない。しかし、もし自分が一人どんなに反対でも、その組織が皆で決めたことは、反対の人も守らなければならない。例えば、泥棒が、窃盗罪なんて、そんな法律は自分は認めないと言い張ってもやっぱり窃盗罪で罰せられるのとおんなじ事である。

今回、「勧告」を出した側の人たちは、日本キリスト教団が、合同していることに関しては、私らと違って、「政府の圧力とは言え、教会が一つにまとまったのは良いことだ」と考える人たちですが、しかし、教会の拘束力に関して言えば、「そこに属するメンバーを「拘束」することは是である」とする人たちであると見做せます。今まで彼らは、拘束を否定する人たちと何とか上手くやっていこうと議論を尽くしてきた(と私たち傍にいる者には見えた)のですが、今回、「教団創立以来」初めてとなるこの勧告を出したのは、こうしなければ既に教団が地上の(信仰)組織として成り立ちえないところにまで来ていると判断したのでしょう。もしかすると教団は、とにかく一緒になってようと言う合同教会の道から、拘束力をきちんと行使して、組織として形を維持する道へと舵を切ったのではないかと思うわけです。
そしてそのことは、私たちにとっては、よいことかな。と思ったりもするわけです。

あー。眠いので、ちょっと文章が乱れている。また後で直します。


ちょっと直しました。全面的に書き直すかも(12/21)