創造論博物館

これも数日前の話だけれど、アメリカ南部の、創造論に基づく歴史博物館の取材をやっていた。観覧してた(もちろんエバンジェリストの)オバサンとオネエサンがコメントしていたけれど、オバサンは単純に「こんな素晴しい施設!」とか言っているだけだったけど、オネエサンが「自分達の先祖がサルだなんて言うのは、自分で自分を貶めることよ!」とか言っていた。
で、思ったのだけれど、この人はサルって卑俗な存在だと思っているのでしょうね。キリスト教の特徴で、人を特別に価値あるものだと見做すと言う点がある。それが、一人の人を対象にする時には、その人がどんなにつまらない人であっても、その存在を全面的に価値あるものと見做してもらえるということになり、その意味では良いものだと思う。また、その価値を見いだす対象を全世界に拡張することも可能であり、そうなれば、世界のすべては神の「善しとする」ものであり、世界には「神の永遠の力と神性は被造物に現れ」ていることになる。全世界を神の手の跡として尊重することができることになるので、これもまた良いことだと思う。
ところが、どうしても私たちは、自分「達」を他と区別した特別なグループと見做したがる傾向があるようだ。それは、国籍であったり、民族であったり、ある社会層であったり、そうである自分を含む集団とそうでない集団を分けて、そうでない集団を蔑視することで、自分達の優越感を共有し、共有することで確かめようとするようだ。
キリスト教はことさら差別主義と言われることがあるようだけど、この「貴さ」に対する執着が、もしこの差別主義を助長しているのであれば、少なくとも意識してそれを防ぐように心がけなければならないだろう。
その様な、他の集団を蔑視することで集団による優越感の共有を計ろうとする人を、その価値観から自由な人の立場から見ると、他を蔑視し、蔑視しようとする姿は醜い。