カルトとか異端とか(ちょこちょこ追記・訂正)

摂理とか言うキリスト教系カルトがずいぶんと賑わわせている。
彼らの教えたこと、していたことをキチンと調べたわけではないのだけれど、一般論として、いわゆるカルトと呼ばれるような宗教のうち、特にキリスト教系と呼ばれるものの見分け方について。
イエス・キリストを拝むからといって、それがキリスト教とは限らない。キリスト教にも色々な教派があって、それぞれの考え方、教えはずいぶんと違っており、お互いに相手のことをそれこそカルトだ異端だと批難しあったりもするのだけれども、一応名目上はある範囲の中に存在する。

それは「キリストの十字架を唯一の救済の手段とする」と言うこと。
眼目は「唯一の」って点。従って、人間の救済においてキリストの十字架だけが必要十分な手段であって、他の方法は必要ないし、そもそも存在しない。だからまず「キリストの生まれ変わり」ってだけで、「あぁこれはキリスト教ではない」と分かる。救いの手段としてはあの十字架にかかったキリストだけで十分なのだから、改めて生まれ変わってくる必要はないからである。(キリストの再臨については、それが「生まれ変わり」ではないということで勘弁してね)

キリストが唯一の救済の手段であるということは、少し間をはしょって結論だけ言えば、彼自身が唯一神でなくてはならないという結論を生む。必然的に、「三位一体」や「二性一人格」といった、論理的にはほとんど破綻している教理が生じてくる。逆に、キリストを唯一の救済の手段とはしない多くのカルト、異端は、この論理矛盾を生む二つの教理を、どちらか、もしくは両方とも否定する。(そして実際、その方が話の筋が通っているように感じる)
キリスト教って、三位一体と二性一人格ですよねぇ?」って聞いてみて、否定したり、何か言い訳をしだしたりしたら、それはキリスト教ではない可能性が大です。

また、先般、ユダの福音書ダヴィンチコードでこの点が議論になったけど、ここで言う「キリスト」とは、「聖書が教えるキリスト」と言う意味。従って、キリストを受け入れるということは、そのキリストについて独占的に証言している聖書を受け入れるということと同義ということになる。この点、多くのカルトや異端は、聖書ではない正典を持っている(今回の摂理の場合は良く知らない)
キリスト教ってことは、旧新約聖書だけが、正典ですよね?」って聞いてみて、何か別の経典を持ちだしてきたら、これもまた大いに怪しい。
カトリックは、聖書より伝承を重視する」だとか、「プロテスタントは聖書より教理を重視する」だとか、批難されることがあるけれど、それにしたってどちらも自分たちについては「自分たちにとって聖書だけが正典である」と答える(と思う)

以下にもキリスト教風の宗教の勧誘を受けた時には、上記二つを聞いて、怪しい時には、門前払いが吉。(突っ込んで話し始めると、彼らは、セールストークの訓練を受けているから、どんどん踏み込まれてしまう)

問題は、ちゃんとしている筈のキリスト教に属する人の中にも、上記の三位一体とか、聖書の独占的権威とかを否定しちゃう人が結構いること。もう一つは、これらを否定しない、従ってちゃんとしている筈のキリスト教が、その人にとって有益なものであるかどうかは、また別の話であるということ。

最後に、ちょっと問題発言だけれど、宗教の立場である宗教を評価する時、その宗教がいわゆる反社会的であるかどうかということは、その価値(?)において本質的な問題ではない。
つまり、一夫多妻だろうが、壷を売ろうが、家庭を捨てようが、それは一般社会がその宗教を攻撃する理由になったとしても、他の宗教がその宗教を否定する直接の理由にはならない。反社会的なことで否定されるなら、あらゆる宗教はある面反社会的な要素を持っている筈であるし、少なくともその初期においては実際に反社会的であったからである。
(もちろん、一夫多妻も、霊感商法も、家庭放棄も、それぞれの宗教の教えの側から批判されるのだが)