カウンセリングについて

四国新聞社

香川大教授に懲役2年/相談女性にわいせつ行為
 悩みの相談に訪れた20代の女性に自宅でわいせつな行為をしたとして準強制わいせつ罪に問われた香川大教育学部教授※※※※被告(51)=休職中=に対し、高松地裁の増田耕児裁判長は23日、懲役2年(求刑懲役3年)の判決を言い渡した。

 増田裁判長は判決理由で「言葉巧みに女性を抵抗不能の状態にし、狡猾(こうかつ)で周到な犯行。刑事責任は重い」と述べた。

 検察側は「女性に治療と信じ込ませた」と指摘し、被告側は行為自体を認めた上で「女性は自ら服を脱いでおり、自分の意思で判断したか納得していた」と無罪を主張。マインドコントロールによる同罪の成否が焦点となっていた。
(伏字は、私がしました)

 彼の「治療」の情景を一二度テレビで観た。おそらく、特に面白いところを引用していたのだと思うけれど、「あれはセクハラだって言われたらお手上げだよなぁ」と思わせるものだった。

で、カウンセリングに関わっている方には、腹立たしいかもしれないけれど、カウンセリングについて一言、ちなみに、私は専門に勉強したわけではなく、一二冊の本を読んだり、何人かのカウンセラーの話を一二時間聞いたりと言った程度。自分自身もいわゆるカウンセリングを受けたこともしたこともない。


カウンセリングは大流行りだ。猫も杓子もカウンセラーの勉強をする。私の知り合いでもカウンセリングの勉強をしている人がいるし、実際にカウンセリングの看板を出している人がいる。でも、私は手を出しかねている。その理由を幾つか。


第一、
カウンセリングをキチンとしている人たちの話を聞くと、大抵「カウンセラーは何かをする人ではない」と言う。カウンセリングとは聞くことだ。悩んでいる人のその悩みを引きだし、それを整理させ、その人がその悩みを解きほぐしていくのを見守るのがカウンセリングだという。それはその通り、そう言うカウンセリングなら歓迎。しかし、上の教授のように、カウンセラーというと、何か悩みごとに対して、それも病気に近い悩みごとに対して、特別な「行為」をして、みるみる解決する人と言う印象を持たれることが多い。そんな印象を持たれるのであれば、カウンセリングの看板を出す必要はない。


第二
それでも、「聞く」為にはカウンセリングの技術が有効であると言われる。確かにそうかもしれない。「聞く事ができる人」にはなりたい。しかし、講演なんかを聞いていると、結局それって技術ではなく、センスではないか?と思う。技術を習っても、センスがない人はカウンセリングを出来ないし、センスがある人は、技術なんてならう必要がない。確かにセンスがある人が習ったら、よりすぐれたカウンセラーになれるだろうし、センスがない人も技術を習えば、少しはまともにカウンセリングができるかもしれない。でも、自分は、自分のセンスだけでイイや。と思っちゃったりする。


第三
カウンセリングをするには、相手との信頼関係を作ることが大切と言う。それはそうだ。自分の古傷をさらけ出すのだから。ある意味、親子、夫婦よりも深い信頼関係が必要だと思う。それが壊れるとセクハラで訴えられたりしちゃうのだから大変だ。そんな深い人間関係を何人も背負うなんて出来ません。だから、技術を習わない素人カウンセリングでイイと思う。


第四
これも素人考えだけど、私は、精神病は、カウンセリングでは治らないと思っている。キチンとした医者から、キチンと薬をもらって、キチンと薬を飲んでコントロールすることが唯一の解決策だと思っている。下手にカウンセリングとか看板を出しちゃうと、この手の薬を必要とする人が来てしまってお手上げになりそう。看板を出してなくても寄ってくるのに。。。
薬を必要としない、カウンセリングだけで好転する軽い軽い人もいるだろうけれど、そう言う人は、普通に話していても治ってしまうし、治らない人は、結局薬が無ければ治らない人なんだと思う。


第五
これが一番大事、
私はキリスト教徒だ。キリスト教徒は、キリストに自分自身を全面的に委ねる人だ。更には、全能の神との関係性を自分自身の存在の本質におく人種だ。ところが、色々な話を聞いていると、どうやらカウンセリングは、依存することを否定し、自己判断、自己自立を目指させるのだそうだ(この辺り、間違っているのであれば指摘していただきたい)。そうすると、キリスト教とカウンセリングは相反する人間像を持っているということになる。実際、精神科にかかると、「キリスト教会に行くなんてとんでもない」と言われる事があるそうだ。
カウンセリングは教会でも大流行りで、キリスト教カウンセリングとか、牧会カウンセリングとか言われるものがあるのですが、そのあたりは一体どうなっているのか良く分からない。
原理は原理で、技術だけをもらってくるんですとか、言われたことがあるけど、それって木に竹を接いでないかい?


要は、話は聞くけど、病気の人は病院に行ってよ。ってこと