控訴棄却

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060327-00000012-yom-soci
ヤフーニュースとかは時間が経つと消えてしまうので冒頭を抜粋。

オウム松本被告の控訴棄却、訴訟能力を認定

 地下鉄サリン、松本サリン坂本堤弁護士一家殺害など13事件で、殺人罪などに問われ、1審で死刑判決を受けたオウム真理教麻原彰晃こと※※※※※被告(51)の控訴審で、東京高裁(須田賢裁判長)は27日、松本被告に訴訟能力があると認め、弁護側が期限までに控訴趣意書を提出しなかったことを理由に、公判手続きを打ち切る異例の控訴棄却の決定をした。
(以下略)
(伏字はわたしがしました)

予想通りというか、非常にツマラナイ、最悪の結果に落ち着いてしまった。
裁判所は最近流行りの審理の迅速化を目指し、被害者感情に配慮しようとした。
弁護人は、これも最近流行りの「被告の訴訟能力」に問題を見いだした。
でも、何か違和感がある。
あくまでも法律や裁判については素人が勝手に言うのだけれど、
刑法犯に対する裁判ってのは、犯人が不当に重い刑を受けないようにするのが目的かつ意義なのではないのだろうか。「悪い事したらとにかく罰しちゃえばいいや」だったら、何も裁判なんかする必要がない。「疑われたら死刑」だったら魔女裁判と変らない。疑われたら即罰するのではなく、「疑わしきは罰せず」が裁判の原則じゃないか?何をしたかを問うのではなく、何をしたことが言い得るかが問われるのだと思う。
ところが、なんとなく皆、裁判をすると真実が明らかになる筈だとか、ヒドイ時には、犯人が謝罪する筈だとか、反省する筈だとか、思い込んでいる節がある。裁判を受けるからと言って、疑われた罪を皆認めなければならないなんて事はないし、反省したり謝罪したりしなければならない義務はない。そんなことを言うと、被害者の気持を考えろとか言われそうだけれども、例えば今回の話でも、松本が土下座して誤ったからと言って、家族の気持は収まるのだろうか?どんなに苦しい処刑方法で殺されたとしても、それこそ家族自ら彼の首を絞めて殺したとしても、家族の気持が癒されるのだろうか?裁判に被害者勘定の解消を持ち込むのは筋違いじゃないだろうか。それはあくまで別の問題。裁判はあくまで罪を疑われた人物が不当な罰を受けることが無いように、彼の行為が明確にどこまで法律違反であるかを確定する作業と言うことではないだろうか。被害者感情に配慮して裁判を急ぐというのは本末転倒ではないか?
もう一点、裁判所の判断も、弁護人の判断も、被告がキチンと刑罰に服するように、ゴネ得にならないように(裁判所)、しかしキチンと刑に服している意識を持たせるように(弁護人)と言うことだと思うのだけれど、刑に服するか服さないかということよりも、その人が何をしたと言い得るのか、言い得ないのか。その点の方が大事なのではないだろうか?刑を受けるべき本人が亡くなってしまうと裁判が打ち切られるけれど、その後も裁判を続けて、無実なら無実、有罪であるなら何に対して有罪であるかを明らかにしたほうが、本人の名誉のためにも必要なのではないだろうか?また、そこで本人が刑に服する自覚を持っているかどうかも、むしろ二次的な問題なのではないだろうか?被告が生きていようと死んでいようと、じっくりと裁判をして、彼はこれこれについて有罪であるとか無罪であるとか言ってあげた方が、被告のためではないだろうか?

こんなことを思うのは私だけ?